怪物公女の母でしたが、子煩悩な竜人皇子様と契約再婚致します

25 トリノ離宮の女主人


 「マリアンヌ様、この離宮で暮らし始めてそろそろ三か月が経とうかと思いますが、何だか未だに慣れません。私の仕事も半減してしまいましたし……」

 ――マリアンヌ達がこのトリノ離宮に越してきてから既に三か月が経とうとしていた。

 トリノ離宮は皇帝ルードヴィッヒがテオドールの母タシアの為に建てた美しい宮殿だ。
 タシア王女が亡くなってからはテオドールはこの離宮で幼少期を過ごした。
 騎士団に入隊してからは主のいなくなった宮殿は、テオドールがいつ泊まりに来ても困らない様に手入れがされている。

 皇帝から疎まれているテオドールだが、その並外れた活躍が無ければ帝国はここまで発展する事は無かった。
 それを分かっているからこそ、トリノ離宮の使用人達は皇子の帰還をいつでも心から歓迎している。

 その皇子が美しい婚約者と共に子連れで帰還した事もあって、侍女長やメイド達、料理長は歓喜し、離宮はかつての賑やかさを取り戻し、使用人達はマリアンヌをこの離宮の新たな女主人として扱っているのだ。

 マリアンヌもローラ同様、大公妃としてピレーネ公国で生活していた時とは比べ物にならない程の待遇に面食らっていた。

 マリアンヌの美しい髪を更に輝かせる為の専属メイドや、化粧の専属メイド、育児で疲れたマリアンヌの身体を揉み解す専属メイド……。

 ――これまで大公妃という身分にも拘らず冷遇されていた事を思えばとても喜ばしい事なのだが、マリアンヌの身の回りの世話をする必要が無くなってしまった事にローラは寂しさを隠せないでいた。

 「そうね。これまでのテオドール様の邸宅とは違ってこの離宮は使用人も大勢いるから。でもローラは以前よりもエリーンのお世話に専念出来るでしょ?」

 「まぁ……。確かにそうなんですけどぉ……」

 ずっとマリアンヌの唯一の侍女として仕えて来たローラは唇を尖らせた。

 (マリアンヌ様が大勢の侍女やメイド達にお世話されるのは、本来なら喜ぶべき事なんだけど……やっぱり寂しいわ)

 エリーンに乳を飲ませ、その背中をそっと叩いていたマリアンヌは、可愛いげっぷの音を聞くと、ルイスが新たに作ったゆりかごに娘を入れた。

 「ローラは、これからも私の筆頭侍女なのだから、寂しがっている時間は無いわよ? 今は筆頭侍女の最優先のお仕事がエリーンの育児になっているだけ。貴女はエリーンの為にも魔法の勉強と、育児用の魔道具作りを頑張ってね」

 そう言われてローラの気持ちも少し軽くなり、改めてバルコニーから一望出来る美しい庭園を眺めて思わず溜息を漏らした。

 庭園は見事な大輪の薔薇が咲き乱れ、その香しい芳香が微かに鼻をくすぐる。
 綺麗に刈り込まれた低木が迷路の様に見え、その迷路の先にある美しく澄んだ池から魔道具が仕込まれているのか、時間によって形を変える噴水が静かに水音を立てている。

 この噴水はエリーンの最近のお気に入りで、キラキラした水しぶきや太陽の光で時折見せる虹を興味深そうにじっと見つめているのだ。

 「はぁ……それにしても、素晴らしい離宮ですね。庭園も凄く広いので、このゆりかご兼乳母車でお散歩すると、エリーンお嬢様が楽しそうです。昨日は綺麗な蝶がお嬢様の近くを飛んでいて、ずっと手を動かされていましたよ」

 生後三か月のエリーンは生まれた時と比べて目が見える様になり、じっと此方を見詰めたり、動く物や派手な色の物を前よりもよく見る様になった。

 近頃は指先に触れる物を何でも口に入れてしまうので、ローラは常にエリーンを見守っていなければならないのだ。

 「テオドール様の邸宅が燃えてしまった時は途方に暮れたけれど、本当に助かったわ。アレクシスの魔の手からエリーンを守る為に必死だったけれど……」

 そこまで言うと、マリアンヌの言葉は途切れる。

 憎い男だった。
 恐れていた男だった。
 軽蔑していた男だった。

 そのアレクシスは……。

 「大公殿下……いえ……アレクシス元大公殿下があんな事になったのは、自業自得です。あの方はテオドール殿下の邸宅を襲わせてエリーン様を殺害しようとしたんですから。天使みたいに可愛らしいエリーンお嬢様を……」

 ローラの瞳に怒りの炎が燃え上がる。

 ――帝国の皇子殺害未遂という大罪を犯し、謀反の疑いで捜索されていたピレーネ公国の大公アレクシスの逃亡劇は呆気なく幕を引いた。

 『ラコルテの森』で発見された狼が咥えていた右腕が、アレクシスのものだと鑑定されたからだ。

 どうやらアレクシスは逃亡していた森の中で狼の住む洞穴に迷い込んでしまったらしい。

 洞穴からは大量の血痕と引きちぎられた服が散乱していて、帝国騎士団が駆け付けた時には、狼が咥えていた右腕だけがかろうじて残っている状態だったとか。

 「そうね……。自業自得だわ。エリーンはもう大丈夫よね……。だってあの男はもういないんですもの……」

 回帰前のエリーンは、アレクシスの実験のせいで怪物公女と呼ばれる恐ろしい異能者になってしまった。

 あの男が実の娘を地獄に堕としたのだ。

 アレクシスがこの世から消えたのなら、今度こそエリーンを安心して育てる事が出来る。
 エリーンが魔力を暴走させない様に訓練させながら。

 ――では、その後は?

 マリアンヌの瞳が揺れた。

 既にアレクシスの脅威は無くなった。

 ルイスとローラに協力して貰ってエリーンの魔力暴走を抑える魔法の訓練が終わったら?

 約束の契約再婚の期限が過ぎる前に、この離宮を出て行かなければならないかもしれない。

 それは初めから決めていた事なのに。

 マリアンヌの脳裏にテオドールの優しい眼差しと、彼に抱き締められた時の逞しく包み込む温かいぬくもりが蘇り、胸がズキリと痛む。


 「――マリアンヌ様……? 少し顔色が……」

 心配そうなローラに無理に笑顔を作るとマリアンヌは首を振った。

 「――大丈夫よ。少し風が冷たかっただけ。でも慣れればこの冷たい風も心地良く感じるでしょう」


 ***


 ――帝国の皇帝ルードヴィッヒは、盟約により仕方なく独立させていたピレーネ公国が遂に事実上の属国となった事に満足していた。

 (まさかそのきっかけを作ってくれたのが、あのテオドールだったのは気に入らないが、まぁいいだろう。異能者がこれからは完全に我が帝国のものとなる。小難しい術式が無ければ発動する事も無かった魔法が、異能という生まれつき身に着けている体質で簡単に発動するのだ)

 これまでも多くの異能者を帝国はピレーネ公国から取り上げ、騎士団や護衛、密偵等に利用してきた。
 それでもピレーネ公国との盟約が枷となっていた為、異能者全員を帝国が召し上げる事は出来ずにいたのだ。

 しかし、この盟約には謀反の証拠が見つかった時には大公家は取り潰しとなり、ピレーネ公国の大公は皇家から選出される事が明記されている。

 そして今こそがピレーネ公国の終わりだ。

 ***

 「テオドール……此度のピレーネ公国の謀反を知らせてくれて感謝する。今宵は無礼講だ。楽しい晩餐にしよう」

 戦勝祝いの晩餐依頼、久しぶりに宴席に招待されたテオドールは上機嫌な皇帝と杯を傾けた。
 晩餐会の席では2人の腹違いの皇子達、そして皇后が冷ややかに杯を持ち上げ微笑をたたえている。

 テオドールは幼少時から向けられていたこの冷ややかな視線には慣れていた。
 母の顔を知らないテオドールにとって、幼い頃はこの家族に期待した時期もあった。

 遊んでくれる楽しい兄達。
 剣術や狩りを教える頼もしい父。
 温かいぬくもりを与えてくれる優しい継母。

 そんな無駄な幻想を抱いた自分に呆れる。

 テオドールが努力すればするほど。
 勉学も剣術も呪われた血のせいにされた。

 喜んで貰う為に努力してきた姿は、気味の悪い怪物としてしか見られなかったのだ。

 この家族にとって自分という存在は、異物なのだと思い知る。

 (そんな私の空虚な心を救ってくれたのはマリアンヌ……貴女だ。私はマリアンヌとエリーンの家族になれればそれでいい。この幸せを永遠のものに出来たなら……)

 「ところでテオドール……その……婚約者を連れて来た……とか」

 ――物思いに耽っていたテオドールは皇帝の言葉にハッとする。

 「はい。屋敷をあの男に燃やされた為、急遽トリノ離宮へ連れて参りました。子も出来ましたので、取り急ぎ婚姻のお許しを……」

 美しいく温かいマリアンヌと可愛らしいエリーンを思い出し、微笑むテオドールの姿に冷たい視線を送っていた皇后は口元を歪めると、笑い出した。

 「ホホホ……。血は争えないわね。他人のものを奪う趣味まで同じとは。本当に親子揃って恥知らずな!」

 ――テオドールのナイフを持つ手が怒りに震える。
 敗戦国の戦利品として強引にこの国に連行された気高い王女だった母。
 その母をまるでふしだらな女の様に言われる筋合いは無い。

 皇帝はゴホンと咳払いをする。

 「皇族が側妃を持つのはその血を絶やさない為でもある。テオドール、おまえが連れて来たピレーネ公国の元大公妃だが……側妃にするのはどうだろう。正妃には以前から打診があったウィンダミア公爵の令嬢、エレノアを迎える。皇族の血を引いた正統な公爵令嬢だ」

 エレノアの名が出ると、フィリップ皇子は吹き出した。

 「あはは! 父上、あの出戻りのふくよかな令嬢をテオドールに? それは滑稽だな。よかったじゃない。離縁されてから大分経つけど貰い手がいないって有名だもんねぇ。ウィンダミア公爵に貸しが出来るし。テオドールは今囲っている女も側妃に出来るんだから文句無いよね?」

 我慢の限界だった。

 テオドールはフィリップ皇子を睨みつけ、声を荒げる。

 「――私の妻は生涯ただ一人。マリアンヌだけです。側妃? ふざけるな!」


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