早河シリーズ第一幕【影法師】
 煮物の匂いが漂い始めた頃、鍵の開く音が聞こえた。

「お帰りなさい」
『ああ……早かったんだな』

 帰宅した早河の髪や服は濡れていて彼からは雨の匂いがした。玲夏はずぶ濡れの早河にタオルを渡す。

「雨で撮影中止になったの。すごい濡れてるけど傘差して来なかったの?」
『めんどくさい』

早河はタオルで顔を拭い、その場で濡れたワイシャツを脱ぎ捨てた。タンクトップと部屋着のズボンに着替えた彼は濡れた髪を乱暴にタオルで吹いている。

「雨に濡れて風邪引けば余計にめんどくさいことになるでしょ」

 この男の退廃的な性格はどうにかならないだろうか。玲夏は呆れ顔で早河が脱いだ服を集めた。

『……玲夏』

 集めた服を洗濯機に運ぼうとしていた彼女を早河が後ろから抱き締める。彼の身体から感じる雨の匂いがさらに濃くなった。

 身体に回された腕、背中越しに感じる胸板
髪に押し付けられた鼻先、全身から“彼”を感じて愛しさが込み上げる
でもどうして? こんなに愛しいのに泣きたくなるの

『俺……警察辞める』

背後で聞こえた彼の声は弱々しくて今にも消えてしまいそうだ。

「……辞めてどうするの?」

玲夏の声も震えていた。勘の良い彼女はこれから先に続く言葉を予感していた。

『親父と同じ道を行く。警察を辞めて探偵になる。四谷に親父が探偵として使ってた事務所がまだ残ってるんだ。とりあえずそこ借りて、貴嶋を追う。このまま警察にいても俺は何もさせてもらえない』

 先程の弱々しい声から一転、今度は力強く迷いのない彼の声。外で降り続く雨の音が強まった気がした。

『玲夏はこの先どうしたい?』

腕の拘束が解かれて玲夏は早河の方へ身体を反転させられる。彼と向き合い、見つめ合った。

「どうしたいって……?」
『お前はこれから女優としてもっと活躍していく。だから……』
「だから別れた方がいいって? それが私のためだって言いたいの?」

崩れていく。何もかも。

『俺に玲夏の人生を縛る権利はない。玲夏がもしまだこんな俺についてきてくれるなら別だけど……。お前も身勝手な俺に付き合うのもそろそろ限界じゃないか? 俺の飯作ったり部屋掃除したり……“本庄玲夏”はダメな男の世話焼いてる場合じゃないだろう?』

 早河は優しく微笑んで玲夏から離れると、傍らのソファーに座った。彼女を見上げる早河の瞳は彼女の心情を見透かしているようだった。
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