僕の瞳にだけ映るきみ
3
「…おい、佐藤、佐藤。どうしたぼーとして。1番端のカウンターでいいか?」
「あっ、すいません。はい」
先輩の声で我に返った俺は、4つあるカウンターのうち1番右側からつめて座った。
店内にはそんなにお客さんがいなくて、カウンター席と背中を向け合うように配置されたイスとテーブルに俺らと同じくらいの年齢に見える男性がひとりと、入口側の壁に置いてあるテーブル席に男女が1組いるだけだ。そのテーブル席が置いてある壁の反対側の壁は一面が本棚になっていて、文庫や単行本でびっしりと埋め尽くされている。
「ごめんなさい石山さん、今日もお冷出すの遅くて」
「気にするなよ風澄ちゃん。今日もマスターは寝てるんだろ?それとも銅の採掘か?」
「いいえ、今日は1週間限定の旅人になるそうで店を開けています」
くすりと微笑みながらそう言う彼女。
おそらく、店員さんは彼女1人なのだろう。
テーブル席の男女にカクテルを1杯ずつ届け、空いたグラスをバッシングしたあと、彼女は俺らにお冷やとお通しを遅れてすみませんと出してくれた。1人でこなすには大変そうに感じるが、その動きはうるさくなく落ち着いていて忙しさを一切感じさせない品がある。
それにしても、先輩は慣れたように名前を呼んでいるし、マスターが寝てるだか採掘だかなんだか親しげな会話をしていて妙な居づらさを感じるなーと俺が思っていると、それをくみ取ったかのように彼女が僕に声をかけてくれた。
「端っこ。落ち着きますよね」
「え?あ、はい。いつもできるだけ、1番後ろの1番端に座っていたいと思っています」
「あ、一緒!なんなら、1番後ろの真ん中になるよりなら、1番前列の1番端がよくないですか?窓際なら尚よし」
さっきまでの落ち着いたテンションとは少し違って、仲良くなれた嬉しさを表現する子どもみたいな表情とトーンで彼女はそういう。最後ににこっと笑ってグーサインを作ったその無邪気さが、さらに俺を彼女に引き込ませた。
「すごい、わかります!なんでわかるんですか」
「ふふっ、だって言ったじゃないですか。落ち着く場所にどうぞって」
彼女がそう言うと同時に、頼んでいたカクテルが先輩と俺に提供される。
彼女が作ったからかわからないけど、フィルターがかかったかのようにその青とオレンジのグラデーションがきらきら揺らめいて見えた。それと同時に、確かに「落ち着く場所にどうぞ」って言ってたなあ、と気付く。
普通「いらっしゃいませ」とか「空いてるお席どうぞ」とかなのにどうしてだろう?とか聞く前に、彼女がまたその飴色の瞳でまっすぐ俺を見て、口を開いた。
「私、風澄って言います。風が澄みわたるって書いて風澄。お兄さんは?」
「俺は、佐藤温人です。温泉の温に人で、はるひと」
「素敵な名前ですね。温かい人、温人さん。うん、お似合いです」
社会人になって仕事先の人との関わりばかりだと下の名前で呼ばれることがそもそもない。佐藤さんとか、佐藤くんとか呼ばれる度に、平凡な俺にぴったりだなんて思ってた。だから尚更、彼女の癒やされるような声で名前を呼ばれた時、胸がとくんと鳴ったことに気付く。名前を呼ばれるくらいで緊張するなんてそんな中学生みたいな感情を25歳の俺が持つわけがないし、なんならこの頃の僕はまだ恋というものを思い出していなくて。忙しい日々の中で忘れたまま無自覚で。
風が澄みわたるで風澄。
あなたのほうが、その雰囲気にぴったりのお名前じゃないですか、と思ってもそのやりとりすらできないくらい、
カウンター越しに見える彼女の瞳に、長くて黒くて綺麗な髪に、なめらかで白い肌に、触れたら壊れそうな雰囲気に、俺は心を完全に奪われていた。