早河シリーズ第六幕【砂時計】
始まりには何もなかった
明るくもなく、暗くもなく
白でも黒でもない
生きているのか、死んでいるのか
動いているのか、止まっているのか
全て何も意味がない
ここでは何も意味を持たない
無の世界
そこに産まれたものが 混沌《カオス》
カオスから天地は創造された
*
11月16日(Mon)午後4時
風が冷たい。これは冬の風だ。
明鏡大学の敷地内の小道を歩いて浅丘美月は図書館に入った。暖房が効いていて館内は暖かい。
ロビーの館内表示で目的の階を確認して彼女は階段で二階に上がった。
今日のギリシャ神話と人間心理学の講義も何事もなく終わった。何事もなく、そんなことは当たり前だ。
担当教諭の三浦英司はただの非常勤講師。だが、彼を見ていると美月の心の危険信号が点滅を始める。
理由はわかっている。彼が、あの人に似ているからだ。たったそれだけで美月にとって三浦は要注意人物になった。
ギリシャ神話と人間心理学の講義を受けて以降、ずっと頭の片隅に残って離れない疑問がある。それを解消する糸口を探していた。
何かがわかれば自分が納得するとも思えない。でもこのモヤモヤとした気持ちの悪さだけはどうにか捨ててしまいたかった。
インターネットで検索して調べる手段も考えたが、古くからの文献を図書館で探して読む方が本好きの美月には合っている。
二階のフロアで分野別に並べられた棚から天文学の分野の書棚を見つけた。書棚と書棚の間の通路に入った美月の歩みが止まる。
前方に三浦英司が立っていた。彼は棚から本を引き抜いてその場でページをめくっていた。
ここは明鏡大の図書館、明鏡大の非常勤講師の三浦がここに居ても不思議ではない。しかし、よりによって彼は美月が目的としている天文学の棚の前にいた。
三浦が別の本に手を伸ばした時に通路にいる美月と目が合った。その瞬間から美月の心の警告音が鳴り始める。
彼は美月を見ると最初は驚いたようだった。やがて穏やかな微笑みに切り替わり、耳に残る低いトーンの声が聞こえた。
『調べもの?』
「……はい」
通路を進んだ美月は彼と背中合わせの状態になった。
「三浦先生にお尋ねしたいことがあります」
『何かな?』
「ヘシオドスの唱えたカオスとは宇宙の起源のことですよね」
館内で大きな声は出せない。小声で呟く美月の言葉には強い重みが含まれていた。
この男に抱えていた疑問の答えを聞いてみようと思った動機は不明だった。でも三浦ならば何か答えを知っているかもしれない、そんな予感がした。
彼はじっと美月を見ている。
三浦英司という架空の人間を演じている佐藤瞬は彼女の質問の意図を理解した。彼は三浦の声で答える。
『ヘシオドスの神統記《しんとうき》だね。そうだよ、彼は宇宙の始まりをカオスが生じたと唱えた。カオスから大地のガイア、冥界のタルタロス、愛のエロスが生まれた。それが後々のギリシャ神話の始まりとして語り継がれていくことになる』
「すべてはカオスから始まった……と言うことですよね」
『“カオス”に興味があるのか?』
宇宙論でもない、ギリシャ神話でもない、もうひとつのカオスを美月は知っている。
明るくもなく、暗くもなく
白でも黒でもない
生きているのか、死んでいるのか
動いているのか、止まっているのか
全て何も意味がない
ここでは何も意味を持たない
無の世界
そこに産まれたものが 混沌《カオス》
カオスから天地は創造された
*
11月16日(Mon)午後4時
風が冷たい。これは冬の風だ。
明鏡大学の敷地内の小道を歩いて浅丘美月は図書館に入った。暖房が効いていて館内は暖かい。
ロビーの館内表示で目的の階を確認して彼女は階段で二階に上がった。
今日のギリシャ神話と人間心理学の講義も何事もなく終わった。何事もなく、そんなことは当たり前だ。
担当教諭の三浦英司はただの非常勤講師。だが、彼を見ていると美月の心の危険信号が点滅を始める。
理由はわかっている。彼が、あの人に似ているからだ。たったそれだけで美月にとって三浦は要注意人物になった。
ギリシャ神話と人間心理学の講義を受けて以降、ずっと頭の片隅に残って離れない疑問がある。それを解消する糸口を探していた。
何かがわかれば自分が納得するとも思えない。でもこのモヤモヤとした気持ちの悪さだけはどうにか捨ててしまいたかった。
インターネットで検索して調べる手段も考えたが、古くからの文献を図書館で探して読む方が本好きの美月には合っている。
二階のフロアで分野別に並べられた棚から天文学の分野の書棚を見つけた。書棚と書棚の間の通路に入った美月の歩みが止まる。
前方に三浦英司が立っていた。彼は棚から本を引き抜いてその場でページをめくっていた。
ここは明鏡大の図書館、明鏡大の非常勤講師の三浦がここに居ても不思議ではない。しかし、よりによって彼は美月が目的としている天文学の棚の前にいた。
三浦が別の本に手を伸ばした時に通路にいる美月と目が合った。その瞬間から美月の心の警告音が鳴り始める。
彼は美月を見ると最初は驚いたようだった。やがて穏やかな微笑みに切り替わり、耳に残る低いトーンの声が聞こえた。
『調べもの?』
「……はい」
通路を進んだ美月は彼と背中合わせの状態になった。
「三浦先生にお尋ねしたいことがあります」
『何かな?』
「ヘシオドスの唱えたカオスとは宇宙の起源のことですよね」
館内で大きな声は出せない。小声で呟く美月の言葉には強い重みが含まれていた。
この男に抱えていた疑問の答えを聞いてみようと思った動機は不明だった。でも三浦ならば何か答えを知っているかもしれない、そんな予感がした。
彼はじっと美月を見ている。
三浦英司という架空の人間を演じている佐藤瞬は彼女の質問の意図を理解した。彼は三浦の声で答える。
『ヘシオドスの神統記《しんとうき》だね。そうだよ、彼は宇宙の始まりをカオスが生じたと唱えた。カオスから大地のガイア、冥界のタルタロス、愛のエロスが生まれた。それが後々のギリシャ神話の始まりとして語り継がれていくことになる』
「すべてはカオスから始まった……と言うことですよね」
『“カオス”に興味があるのか?』
宇宙論でもない、ギリシャ神話でもない、もうひとつのカオスを美月は知っている。