元使用人の公爵様は、不遇の伯爵令嬢を愛してやまない。
「名を明かしたところで、気づきはしないと思っていましたが、やはり忘れていたようですね、使用人をゴミのように扱っていたあなた方にとって、その名は記憶するに値しなかったのでしょう……見覚えがありませんか、僕のこの、珍しい銀髪に――」

 得体の知れない恐怖に駆られたミレイユは、顔を歪めて必死に頭を回転させた。
 ――一体、なにを言ってるの? 気づかない? 忘れていた? 使用人だとか銀髪だとか、意味がわからない――。
 ふと、ある言葉が引っかかったミレイユは、記憶の限り答えを求める。
 そして、徐々に思い出す。
 使用人、銀髪――銀髪の使用人……そういえば、そんな珍しい髪色をした少年が、かつて、フランチェスカ家で働いていたことを――。

「ま……まさか――」

 ミレイユが消え入りそうな声で呟いた瞬間、クラウスの瞳が弓形になり、妖しく煌めいた。

「やっと思い出したようですね、そうです、僕の旧姓はクラウス・バートン。十年前から二年間、父、サウロスの知人の子として、あなたの屋敷で働いていた人間ですよ」

 クラウスが手を離すと、ミレイユはよろよろと後退りする。
 すかさずフリードリッヒがやって来ると、ミレイユの顎を掴んでいたクラウスの手を、ハンカチーフで綺麗に拭った。

「あなたの屋敷ではずいぶん痛ぶられました、劣悪な就労環境で働く使用人たちの、ストレスの吐け口になっていた。そういえば、あなたには髪を引っ張られたことがありましたね、偽物のようで不気味だと言われて……ブリオット公爵に告げ口したら、食事をやらないと脅しまでかけられて」

 ミレイユは顔面蒼白で、目と口を開いたまま立ち尽くしていた。
 クラウスの言う通り、ミレイユは使用人の名前など覚えない。その上、クラウスはこの八年間で見違えるほど大人になったため、まったくわからなかったのだ。
 昔、バカにしていた使用人が、実は公爵家の後継で、ここまで美男子に成長し、目の前に現れようとは。
 そうとは知らず、アンジェリカを悪役に仕立て、必死に求婚した挙句、こっぴどく振られた。
 その事実は、ミレイユの塀のように高いプライドを粉々に打ち砕いた。
 もはや放心状態のミレイユに、クラウスはニッコリと微笑みかける。
 天使のような、悪魔の笑顔だ。
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