早河シリーズ短編集【masquerade】
 ハルナの髪からは女物のシャンプーの香りがする。まだ湿り気を帯びた髪の束をすくって矢野は口付けした。

『なんで先にシャワー浴びちゃったの? 一緒に風呂入ろうと思ってたのに』
「ごめーん。今日この後に出掛けるの」
『今日は店休みじゃなかったっけ?』
「お店は休みだよ。仕事じゃないの」

 だし巻き玉子の最後のひと切れを食べた彼女は側のサイドテーブルに小皿を置いた。ハルナが動くたびに彼女が着る黒色のベビードールの裾が揺れる。

サイドテーブルに置かれた写真立てには今年の春に花見に行った時の、桜に囲まれた矢野とハルナの写真が飾ってあった。

「一輝。今までありがとうね。一輝と一緒にいられてとっても楽しかった」
『今までって……いきなり何?』

 ハルナの一言が矢野の心に胸騒ぎの波を起こす。波はどんどん大きくなり、心の中で荒くうねっていた。

「私ね、今月中にお店辞めるの」
『辞めてどうするんだ?』
「結婚する」

優しい声色で告げられた残酷な言葉の意味をすぐには理解できなかった。ここだけ時が止まっていた。
静かで、ぞっとするほど重たい空気が流れている。

『……誰と?』
「一輝ってやっぱり頭いいよね。私が結婚する相手が自分じゃないってすぐにわかるんだもんね」
『馬鹿にするなよ。俺だってそれくらいわかる。……相手は誰?』

 ハルナは相手を言う前に矢野にキスをした。塞がれた唇は離れて近付いてを繰り返して二人はベッドに沈む。

矢野を下にしてハルナが彼の上に覆い被さった。何度も交わした口付けに互いに息が上がっている。

「お店のお客さん。簡単に言えばパトロンさん」
『金持ちの爺さんか?』
「お爺さんじゃないけど……確か37歳だったかな?」
『おっさんじゃん。なんでそいつと……』

 矢野の悲しみの表情を見ないように、ハルナは彼の剥き出しの胸元に頬を寄せた。初めて出会った時よりも矢野の体つきは男らしくなり、彼は少年から男性になった。

その瞬間をハルナは独り占めできた。

 矢野がこの先、どれだけ多くの女を抱いたとしても、彼が一番最初に抱いた女は自分だ。女を知らなかった彼に女を教えた。

「私が将来はパタンナーになりたいって言ったの覚えてる?」
『覚えてる。ハルナの夢だろ』
「うん。本当は短大じゃなくて服飾の専門学校に行きたかった。親に邪魔された私の夢……」

 ベビードールの肩紐が矢野の手で下ろされてハルナの胸元も露《あらわ》になった。二人分の重みが加わってベッドが軋む。
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