早河シリーズ短編集【masquerade】
 悲しいのに、切ないのに、苦しいのに、ハルナの身体も素直で悔しい。
こんな時くらい嫌がって拒絶してくれたら諦めもつくのに、頬を紅色に染めて感じているハルナが可愛くて仕方ない。

嫌な女だ。これから別れる男に簡単に身を委ねて、もっと、もっと、と快楽をねだる。
最低な女だ。壊したくなる。

 大好きだった無邪気な笑顔もぐちゃぐちゃに壊してやりたい。優しくなんてしてやれない。
壊れてしまえばいい。全部。
全部壊れてなくなってしまえばいい。

 汗か涙かわからない液体が頬から首筋に流れる。
ハルナの首筋にあえて濃く印したキスマーク。首筋から胸へ、腹部から下半身へ、ハルナの白い肌を点々と染める赤い痣《アザ》は独占の証。

この赤い刻印が薄くなる頃には、もう彼女は自分を忘れているだろうか? これが消える頃には彼女を忘れられるだろうか?

 夢のために愛のない結婚を選ぶ女を無我夢中で愛した。自分も彼女も壊れるほどに。

 愛してるとは囁けなくて、それでも口から漏れる『愛してる』の囁きにハルナの息遣いが応える。
キスの感触も、女の柔らかな肌の質感も、濡れた膣の匂いも、女の味も、全部ハルナしか知らない。

 ……ハルナしか、知らなかったんだ。

 目覚めた時には青空だった空の色が朱色に移り変わっていた。まどろんでは目覚めてを繰り返して、どれくらいの時を刻んだかわからない。
夏の夕暮れが近いなら夕方の6時は過ぎている。

 ベッドに伏せていても聞こえるハルナの身支度の音。彼女はひとりで再びシャワーを浴びて化粧を始めていた。

髪を乾かすドライヤーの音、コンパクトケースの蓋を閉じる音、化粧ポーチの中身を探る音、ハルナの息遣い、嗅ぎ慣れたハルナの香水の香り、物音や匂いのすべてがハルナの存在をすぐそこに感じさせる。

「帰るね」

 ハルナはベッドに寝たままの矢野に声をかけた。彼はこちらを向いてはくれない。
これが大切な人を傷付けた代償だ。ごめんねと呟いてハルナは矢野に背を向けた。

『……ハルナ。旦那のことは愛せなくても、子どもが産まれたら子どものことは愛してやれよ。せめて美味しい玉子焼きは作れるようにしておけ。母親の玉子焼きって、子どもには特別なものだから』

彼女は後ろを振り返れなかった。今振り返れば全部台無し。矢野の顔を見てしまえばここから動けなくなってしまう。

「ありがとう。私からも最後に年上としての助言。次に彼女にする子はお金や地位に執着しない女の子を選びなさいね。私みたいな女は絶対選んじゃダメだよ。一輝は優しいから悪い女に騙されないか心配だな」

 視界の片隅でハルナの小さな背中が震えていた。手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに今は彼女が遠く感じる。

 去る背中にもう声はかけない。玄関の扉が閉まって部屋にひとりきりになった。
ハルナの残り香がほのかに漂う静かな部屋。この部屋にハルナが来ることは二度とない。

流した涙が頬をつたってシーツを濡らす。壊れた心を治す方法は誰も教えてくれない。

 窓の外には夕暮れの蝉時雨。ひとりきりになった大学1年の夏だった。
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