早河シリーズ短編集【masquerade】
 彼女が纏う穏やかな和の香りはノスタルジックで懐かしい。母親ではない女の母性愛に包まれる不思議な心地に、心の奥底に溜めた本音が漏れた。

『最近さ、自分が何をしたいのかわからなくなってきたんだ。法学部には入ったけど、いまいち弁護士や政治家になりたいとは思えねぇし……』
「一輝は政治家のタイプではないわね。あの武田の甥とは信じられないくらい、あなたは優しい子だから」
『優しいね。ハルナにも同じようなこと言われた』

 クッションを枕代わりにして壁と頭の間に挟んだ。
頭痛に胸焼け、気持ちの悪さもある。体の不調は質のいい酒を有り難みもなく飲んだ罰だ。

『自分の足で生きてる感覚がないんだ。このまま伯父さんの言う通りの道を進むだけで人生が終わっていくのかと思うと怖くもなる』
「そうね。このまま行けば一輝は武田の都合のいいお人形にされてしまうわ。それは嫌?」
『嫌って言うか……うん、嫌かも』

サユリが品のいい笑い声を漏らした。彼女は何がそんなに楽しいのだろう?

「諜報《ちょうほう》やってみない?」
『諜報……ってスパイ?』
「ええ。隠密《おんみつ》と言った方がいいかしら。高校生の時に一度やったでしょう?」

 集団暴行事件の犯人を見つけるために英明ゼミナールに潜入した時のことをサユリは言っている。

「あなたが予備校に潜入した話を武田から聞いた時に、一輝には諜報の資質があるのではないかと思っていたの。インターネットも使いこなして情報を集めていたそうね」
『ネットなら使おうと思えば誰でも使えるし急にそんなこと言われても……』

 諜報? 隠密? スパイ? どうしてこんな話になった?

 サユリの目的がわからない。ひとつわかることは、人生において踏み入れてはならない向こう側の領域への選択が、自分に迫ってきていることだけだった。

「あなたは頭の回転も速く、社交性にも恵まれている。いくつもの顔を使い分けて相手の懐に潜り込み、機密情報を盗み出す。失敗すれば死の制裁が待つやり直しの効かない世界よ」

サユリの口から淡々と語られる世界に鳥肌とわずかな高揚感が生まれる。

「自分の足で生きている感覚を味わいたいのなら、死に物狂いで進まないと生き残れない世界に身を投じるのもアリだとは思わない?」

妖艶な囁きは魔女の囁き。聞き入れてはいけない、でも聞かずにはいられない甘い声。

「あなたが手に入れた情報で仁《じん》をサポートしてあげなさい」
『早河さんを?』
「仁も所轄に配属されてようやく警察官のスタートラインに立てた。彼のこれからの刑事人生には必ず試練の時が来る。いつか仁も、すべてを知る時がやって来るわ。その時にあなたが集めた情報で仁を助けてあげて欲しい」

 早河の過去は武田も秘書の村瀬も多くを語らない。サユリも意味深な言葉の奥底までは話してくれない。

一体、早河には何があるのだろう?
早河に訪れる試練とはどういう意味だろう?

「このまま伯父の人形として一生を終えるか、生と死の背中合わせの世界を生き抜くか。どちらに進むか決めるのは一輝、あなたよ」

 言い出せばキリがないほど、あの時にあちら側を選べばもっと違う人生だったと思うことが人生の岐路にはある。

そしてそれは生と死の紙一重の選択でもあるのだ……。
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