早河シリーズ短編集【masquerade】
 早河探偵事務所に戻ると、事務所の二階には明かりが灯っている。なぎさはまだ北海道から帰って来ていない。早河となぎさ以外に、主が不在の事務所に自由に出入りできる人物はあとひとりだ。

『おっかえりー」

予想通り、矢野一輝が事務所のソファーに寝そべっていた。自分の家も同然の寛ぎ様だ。
今日も派手な柄シャツを着た彼の頭にはまだ包帯が巻かれている。

 目だけで矢野に返事をして早河はリクライニングチェアーに腰を降ろした。

『有紗ちゃんとのデートはどうでした?』
『ジェットコースターには乗らずに済んだ』

煙草を咥えて一服する。矢野がゲラゲラ笑っていた。

『確か、高校時代の彼女が絶叫系大好きで、遊園地デートで1日中ジェットコースター乗るのに付き合わされてそれからダメになったんですよね』
『思い出させるな。悪夢だ』
『ははっ。コーヒーは?』
『頼む』

 矢野がコーヒーの準備を始める。今日飲んだコーヒーでまともなコーヒーは高山家で政行が淹れてくれたコーヒーだけだ。
コーヒー豆のいい薫りが漂ってきた。

『なつかれていた可愛い猫を手離して寂しくなってます?』
『バーカ。そんなんじゃない』

椅子のキャスターを動かして矢野に背を向けた。ブラインドの上がる暗い窓に自分の顔が映っている。
悲しい? 寂しい? 今の自分はどんな顔をしている?

 温かいコーヒーを注いだカップがデスクに置かれた。

『子ども扱いせずに有紗ちゃんと向き合った早河さんは、なかなか“いい大人”だったんじゃないですか? なんたって相手は女子高生ですからねぇ。他の男ならホテル連れ込んで取って喰っちまうでしょ』
『お前なら取って喰ってたか?』

早河は横目で矢野を見る。矢野は立ったままコーヒーをすすって肩を竦めた。

『さぁね。俺も相手が有紗ちゃんじゃなかったら、もしかしたらそうしてたかも。もちろん、真紀と付き合ってなければの話ですよ。去年のMARIAの子達みたいに寂しさから身体を売る女子高生はいますからね。だけど有紗ちゃんにはそんなことしたくない。なんでなんだろうな』

 矢野は早河のデスクにもたれかかった。早河もコーヒーをすする。今はもう珈琲専門店Edenのコーヒー豆ではない。

『俺の知らない間に有紗はまた大人になってた』
『やっぱり寂しくなってるじゃないですか』
『多少はな。巣立っていく子どもを見送る気分だ』

煙草の煙と一緒にこの言葉にできない想いも吐き出せたらいい。

『有紗はとっくにいい女になってたよ』
『そりゃあそうですよ。有紗ちゃんはいい女です。同い年の子よりも深い心の傷を負っているのに、あの子はいつも天真爛漫で笑顔。だからあの子に惚れる男は必ずいますよ』
『有紗の彼氏になった奴が有紗を泣かせるようなことがあれば殴るだろうな』
『俺も殴るかも。これじゃあすっかり兄貴ポジションだ』

互いに背を向けて笑い合う。この会話は矢野にしかこぼせない本音だ。

『Edenのコーヒーが恋しいな』

豆を変えて味が変わったコーヒーを飲んで早河が呟く。同意を示すように矢野の背中が左右に揺れた。
< 14 / 272 >

この作品をシェア

pagetop