早河シリーズ短編集【masquerade】
 玄関に駆け込んだ途端に涙が有紗の頬を流れた。涙の我慢も、もう限界だった。
伏せた視線の先に玄関に立つ父の足元が見える。父は有紗のスリッパを揃えて置いた。

『おかえり』
「……ただいま」

ブーツを脱いで父が出してくれたスリッパに履き替える。ウサギの形をしたふわふわのスリッパは有紗のお気に入りだ。

「早河さんに振られちゃった」
『そうか』

差し伸べられた父の手を取る。大きくて温かい手だった。

「お父さんは今日こうなること知ってたの?」
『早河さんに聞いていたからね』
「なぎささんと結婚するって……」
『報告はもらっているよ』

 父に手を引かれて階段を上がり、二人は有紗の部屋の前で立ち止まった。彼は有紗の部屋のノブに手をかけて溜息をつく。

『こんな時、お母さんがいればどうするのかなって考えたんだけど、お父さんにはわからなくてね。困ったなぁ……』

父の服には有紗の涙が染み込んでいた。父の呟きを聞いた有紗は、なんだか可笑しくなってクスクス笑った。

「精神科医の偉いお医者さんのお父さんでも娘が失恋した時の対処法はわからないんだねっ」
『娘のことは誰よりわかっているつもりでも、こんな時は誰よりわからないことだらけだよ。ご飯はできてるから、食べたくなったら降りて来なさい』
「うん」

 部屋に入った有紗と戸口に立つ父が向かい合う。

『金平糖、あるか?』
「ちゃんと持ってる」
『お母さんとゆっくり話しなさい』
「はぁい。……ねぇお父さん」

扉を閉めようとした父が扉の隙間から顔を覗かせた。

「今日ね、とっても楽しかった。私やっぱり早河さんが大好き。早河さんは結婚しちゃうけど、この気持ちはまだ持っていてもいいよね?」
『ああ。大事に持っていなさい』

 扉が閉められた。ひとりになった有紗は金平糖を口に入れてベッドに寝そべった。

「お母さん……失恋しちゃったよ」

 金平糖は死んだ母が“有紗の御守り”と言っていた特別な物。こうして食べていると母の存在を感じられた。
溢れる涙を今は止めない。今日はたくさん泣いて、泣いて、でもそれでいい。

枕に顔を伏せて有紗は泣き続けた。
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