早河シリーズ短編集【masquerade】
4月2日(Mon)

 寝室の姿見の前で美月は顔を後ろに向けた。後方では隼人が慣れた手つきでネクタイを結んでいる。

「ねぇ、変じゃない?」
『大丈夫。可愛い新入社員だよ。可愛い過ぎて心配になるレベル』

 スマートにスーツを着こなす隼人の隣に着なれないスーツを着た美月が並ぶ。今日は新社会人1日目、入社式の日だ。

『やっぱり会社の近くまで車で送って行こうか?』
「子どもじゃないんだから電車で行けます! それに、これから毎日電車通勤なんだよ? 新宿まで10分ちょっとだし、平気」
『そうじゃなくて。こんなに可愛い新入社員なら男が狙うに決まってるだろ。入社式に旦那が送っていけば、変な男に狙われる心配もないし』
「そんなことしたら周りから白い目で見られちゃいます! ただでさえ新入社員なのに結婚してることで、職場の女の先輩達に反感持たれるかもしれないから気を付けてって、由佳さんに言われてるんだよ?」

隼人の変な心配よりも、まだ見ぬ職場の先輩達の反応の方が美月には心配だった。

『美月に何かする奴は男でも女でも許さねぇよ。何かあればすぐに言えよ。電車でも痴漢には気を付けて……』
「うんうん、わかってる。あ、隼人はもう出る時間だよ」

 腕時計を指差して延々と続きそうな隼人の注意事項を中断させた。高校も大学も電車通学だった美月は、ラッシュ時の朝の電車にも乗り慣れている。

隼人もそれはわかっていても、美月に関しては無用な心配性を発揮してしまう。

 玄関で靴を履いた隼人は、美月の背丈に合わせて腰を屈めた。

『いってらっしゃいのキスは?』

せがむ隼人に美月は頬を染めていってらっしゃいのキスをする。隼人は満足げ笑みを浮かべて、先に自宅を出た。

 最寄りの目黒駅に向かう道のりでも隼人の頭の中を占めるのは美月のこと。結婚していてもやはり変な男が寄ってこないか、夫としては心配になる。

 会社は仕事をする場であり色恋の場ではない……そんなもの建前に過ぎない。真面目に仕事をする人間がいる反面、手頃な遊び相手や手堅い結婚相手を物色している人間もいる。

現に、既婚者同士の社内不倫も多い。

 会社はこの世の汚いモノが集まる社会の縮図だ。そんな汚い世界に飛び込む純真無垢な可愛い妻を心配しない夫はいない。

由佳の言う通り、新入社員で既婚者ともなれば、男は牽制できても同性の先輩社員の印象は良くないかもしれない。

 未婚の自分よりも年下の新入社員の美月が結婚していることが気に入らない女性社員も出てくるだろう。美月が会社で何があっても、社外の人間である隼人が口を出せる範囲は限られている。

夫婦二人で生きていくと誓っても結局は個々の力で乗り越えなければいけないこともある。美月にこれから訪れる試練を隼人は側で見守るしかない。
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