早河シリーズ短編集【masquerade】
『美月』

 無言の空気を切り裂いたのは、美月でも池田でもない。道の路肩に停車した車から現れた木村隼人が助手席側の扉を背にして立っていた。
スマホの着信画面はいつの間にか通話終了になっている。

「隼人っ! ごめんね、今行く。……じゃあね」

何も言わない池田に別れの言葉を告げて美月は隼人に駆け寄った。美月を挟んで隼人と池田の視線が絡み合う。

 駆け寄る美月には笑顔を見せながらも、池田を見る隼人の視線は鋭い。隼人に会釈する池田の顔にも笑顔はない。

牽制、敵意、威嚇、挑戦、挑発。絡む視線の意味は隼人と池田にしかわからない。

 隼人が口元を斜めにして笑った。その瞬間に池田の表情は凍りつき、全身が萎縮する。
美月を乗せた車が走り去っても池田はしばらく動けなかった。

(あれが旦那か……)

 颯爽と現れて、たった一言名前を呼ぶだけで彼女を連れ去ってしまえる存在。向こうは彼女の夫、自分はただの同僚。
立場の違いをまざまざと見せ付けられた。

 隼人の圧倒的な威圧感に怖じ気づいた自分が情けなくて悔しい。
池田はいつも自分が一番だった。成績もスポーツも常にトップクラスで居続けた。彼にはライバルなんて存在しなかった。

それなのに僅か数分で池田の22年間築いてきたプライドはへし折られた。こんな経験は初めてだ。

 池田はやり場のない感情を込めた拳をカラオケ店の看板にぶつけた。

『店の物に八つ当たりするなよ。下手すれば弁償だぞ』

 煙草の煙が風に乗って漂ってくる。煙が流れてくる方向には亀山がいた。
煙草を咥える亀山はカラオケ店の軒先からこちらをじっと見つめている。

『いつからそこに居た?』
『ついさっき』

飄々とした亀山の態度が気に障る。美月との一部始終を見られていたと思うと余計に腹立たしい。

『全然気付かなかった。お前、存在感ないな』
『池田よりはマシ』
『何が言いたい?』
『別に。物に八つ当たりする人間よりは存在感ない方がまだマシじゃないかと思っただけ』

 無表情で気持ちが読めない、おまけに相手に屈することもない亀山は池田が最も苦手とするタイプだ。

『あれはどう足掻いてもお前に勝ち目はないだろ』
『……お前には関係ない』

 亀山とは相性が悪い自覚のある池田は彼を無視してカラオケ店の扉を潜る。

沸き上がる黒々とした感情によって、看板に打ち付けた拳の痛みも背中に突き刺さる亀山の視線も、今は何も感じなかった。
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