早河シリーズ短編集【masquerade】
 他の社員や取引先もこの場にいる状況で迂闊な言動はできないと思っていたが、今後の査定? 会社内の評判? そんなものもうどうでもよくなった。

美月への侮辱ともとれる七海の物言いに我慢の限界が訪れた。

『……離れろ』

 冷たい一言がエントランスに響く。言葉を向けられた七海だけではなく、ひそひそ話をしていた受付嬢や聞き耳を立てていた社員達、エントランスにいる誰もが隼人の一言で凍り付いた。

『あんたのお色気作戦、他の男には通用しても俺には効かない。まずあんたは品がねぇよ。ご自慢のでかい胸見せておけば男が釣れると思ってるわけ?』

七海の肩を掴んで乱暴に自分から引き離す。彼女は青ざめた表情を今度は赤く変えて、デコルテが大きく開いた豊満な胸元を押さえた。

『恋人だとか結婚だとかに縛られない、都合のいい女を演じていれば楽でいいよな。でもな、自分から都合のいい女に成り下がれば終わりだ。誰もあんた自身を見ない。あんたの身体に夢中になるだけだ』
「あんたみたいな女を喰い物にしてきた男が説教? そんな偉そうなこと言える資格あんたにあるの? 昔はこのでかい胸に釣られたくせに」

 開き直った七海は隼人をせせら笑う。玄関の扉から、たった今エントランスに入ってきた人物を見た数名の社員がざわついたが、隼人と七海には周りの雑音は耳に入らない。

『あんたに説教する気はねぇよ。確かに俺もあんたのでかい胸には釣られたが、あんたの顔や名前は全然覚えてなかった。結局、俺はあんたのでかい胸にしか興味がなかった。その程度なんだよ。あんたに説教できるとしたら、うちの嫁だな。アイツはあんたとは真逆だから』
「それはご馳走さま。さぞ品行方正な奥様なんでしょうね」
『少なくとも俺の妻は自分の価値を自分で落とす真似はしない。あんたはそうやって身体を武器にして男に色目使って、虚しくならないのか?』

 答えに窮した七海は隼人から目をそらした。七海の沈黙のタイミングを見計らったように、ひとりの女がヒールを鳴らして二人に近付いた。

「あなたも立派になったね。木村くん」

ヒールの音に重なって聞こえた懐かしい声。

『長谷川さん……』
「長谷川部長……どうしてここに……」

 4年前にJSホールディングスを退職した隼人の元上司の長谷川雅《はせがわ みやび》は4年前と変わらない艶やかな微笑を浮かべて、隼人と七海の間に立った。

 長谷川雅の登場に狼狽する七海。雅を部長呼びしたと言うことは……。

『まさか三輪さんは長谷川さんの部下ですか? 4年前にうちを退職した後は他の企業に移られたと聞きましたが』
「ええ。そこから2年前にエクリチュールジャパンに移ったの。今日は三輪の上司としてお詫びに参りました」

雅から渡された名刺の肩書きはエクリチュールジャパンクリエイティブ部門部長となっている。

「この度は部下がご迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます」

 雅は隼人に向けて上体を傾けて最敬礼した。隼人が新入社員の時に指導係だった雅に頭を下げられるのは、実に奇妙な心地だった。
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