早河シリーズ短編集【masquerade】
──美月……美月!
どこかで名前を呼ばれている。私を呼ぶあなたは誰?
──美月!
この声は……私の大好きな……あの人の声……
それまで闇に閉ざされていた美月の視界が明るくなる。彼女は明るさに目が慣れるまで、何度かまばたきをした。
目隠しのアイマスクも口に貼られたガムテープも今はない。会社の倉庫で池田に襲われた時の記憶がおぼろ気に甦る。
身動きできない状態で窮屈な箱に押し込められ、どこかに運ばれる途中で新見千鶴と池田の話し声が聞こえた。やがて千鶴の声も聞こえなくなって、酸素の薄い箱の中で気を失ってしまったようだ。
(ここは……どこ?)
部屋はフローリングのワンルーム。テレビなどの家電は見当たらず、天井のライトだけが煌々と点っている。
『おはよう』
頭上から声が聞こえた。にやにやと口元を緩めている池田と目が合う。
美月が寝かされているのはベッドのマットレス。池田はマットレスの側に立っていた。
両手が縛られていて上手く動かせないが、幸いにも両足は縛られていなかった。美月は自由が効く両足をなんとか動かして身体を起き上がらせた。
「池田くん。これはどういうこと? 説明して」
『俺達、結婚するんだよ』
「……はぁ?」
開いた口が塞がらない。彼は美月の目の前に二枚の用紙を差し出した。
婚姻届と離婚届だ。婚姻届には夫の欄に池田の名前が記入済だった。
『こっちは旦那と君の離婚届。こっちが俺と君の婚姻届。婚姻届の方はあとは君が記入してくれれば完了だ』
「あの……なんで私が主人と離婚してあなたと結婚しなければいけないの?」
『そんなの決まってる。俺が君を愛しているからだよ』
池田に愛していると言われても全く心に響かない。それどころか、彼の歪な愛情に気持ち悪さを感じる。
「それじゃあ私の気持ちはどうなるの?」
『もちろん君も俺と同じ気持ちだよね? 君も俺を愛しているだろう?』
もはや腹を立てるのも馬鹿馬鹿しく思えて、美月は溜息をついた。
池田は知らないようだが、日本の法律には女性にだけ再婚禁止期間がある。
もしも池田の要望通りに美月が隼人と離婚したとしても、美月が池田と再婚できるのは離婚から半年後だ。
(※【民法733条 再婚禁止期間】より。2016年に法案改正、再婚禁止期間は6ヶ月から100日に改正された)
『だけど君は色んな男に愛想を振り撒くから気が気じゃなかったよ。亀山や鈴川も君に馴れ馴れしくして……この前も鈴川と待ち合わせて、一緒に帰っていたよね。あいつと何話してたの?』
「鈴川くんとは彼のプライベートの相談を受けていただけ」
『プライベートのことねぇ。まぁいいけど、これからは男と二人きりで会うのは控えてもらうよ。今の旦那と離婚の話をする時は、俺も同席するから安心して』
隼人と離婚して、池田と結婚することを前提で話を進められているこの状況が不愉快だった。池田の考えには美月が決める権利、美月が選ぶ権利が最初から用意されていない。
一体この男は、女を何だと思っているのだろう。女は男の所有物やオモチャじゃない。
『君の家も知ってる。旦那の顔も見たよ。あんなチャラチャラした男は君に相応しくない。君に相応しい男は俺しかいない』
大人しく様子見をしようと思っていた美月の我慢の糸がぷつっと切れた。美月と隼人のこれまでの歴史を知らない池田に、隼人のことをとやかく言われたくない。
こんな男に隼人の良さが理解できるわけがない。
どこかで名前を呼ばれている。私を呼ぶあなたは誰?
──美月!
この声は……私の大好きな……あの人の声……
それまで闇に閉ざされていた美月の視界が明るくなる。彼女は明るさに目が慣れるまで、何度かまばたきをした。
目隠しのアイマスクも口に貼られたガムテープも今はない。会社の倉庫で池田に襲われた時の記憶がおぼろ気に甦る。
身動きできない状態で窮屈な箱に押し込められ、どこかに運ばれる途中で新見千鶴と池田の話し声が聞こえた。やがて千鶴の声も聞こえなくなって、酸素の薄い箱の中で気を失ってしまったようだ。
(ここは……どこ?)
部屋はフローリングのワンルーム。テレビなどの家電は見当たらず、天井のライトだけが煌々と点っている。
『おはよう』
頭上から声が聞こえた。にやにやと口元を緩めている池田と目が合う。
美月が寝かされているのはベッドのマットレス。池田はマットレスの側に立っていた。
両手が縛られていて上手く動かせないが、幸いにも両足は縛られていなかった。美月は自由が効く両足をなんとか動かして身体を起き上がらせた。
「池田くん。これはどういうこと? 説明して」
『俺達、結婚するんだよ』
「……はぁ?」
開いた口が塞がらない。彼は美月の目の前に二枚の用紙を差し出した。
婚姻届と離婚届だ。婚姻届には夫の欄に池田の名前が記入済だった。
『こっちは旦那と君の離婚届。こっちが俺と君の婚姻届。婚姻届の方はあとは君が記入してくれれば完了だ』
「あの……なんで私が主人と離婚してあなたと結婚しなければいけないの?」
『そんなの決まってる。俺が君を愛しているからだよ』
池田に愛していると言われても全く心に響かない。それどころか、彼の歪な愛情に気持ち悪さを感じる。
「それじゃあ私の気持ちはどうなるの?」
『もちろん君も俺と同じ気持ちだよね? 君も俺を愛しているだろう?』
もはや腹を立てるのも馬鹿馬鹿しく思えて、美月は溜息をついた。
池田は知らないようだが、日本の法律には女性にだけ再婚禁止期間がある。
もしも池田の要望通りに美月が隼人と離婚したとしても、美月が池田と再婚できるのは離婚から半年後だ。
(※【民法733条 再婚禁止期間】より。2016年に法案改正、再婚禁止期間は6ヶ月から100日に改正された)
『だけど君は色んな男に愛想を振り撒くから気が気じゃなかったよ。亀山や鈴川も君に馴れ馴れしくして……この前も鈴川と待ち合わせて、一緒に帰っていたよね。あいつと何話してたの?』
「鈴川くんとは彼のプライベートの相談を受けていただけ」
『プライベートのことねぇ。まぁいいけど、これからは男と二人きりで会うのは控えてもらうよ。今の旦那と離婚の話をする時は、俺も同席するから安心して』
隼人と離婚して、池田と結婚することを前提で話を進められているこの状況が不愉快だった。池田の考えには美月が決める権利、美月が選ぶ権利が最初から用意されていない。
一体この男は、女を何だと思っているのだろう。女は男の所有物やオモチャじゃない。
『君の家も知ってる。旦那の顔も見たよ。あんなチャラチャラした男は君に相応しくない。君に相応しい男は俺しかいない』
大人しく様子見をしようと思っていた美月の我慢の糸がぷつっと切れた。美月と隼人のこれまでの歴史を知らない池田に、隼人のことをとやかく言われたくない。
こんな男に隼人の良さが理解できるわけがない。