早河シリーズ短編集【masquerade】
 部屋の造りは単純なワンルームだから、おそらく玄関はあちら側だ。

「……わかった。でも婚姻届を書きたくても手が縛られたままじゃ書けないよ。これを外してもらえるかな? ね、お願い」

 美月は精一杯の猫なで声をだして上目遣いに池田を見上げた。

 “女は男を騙せて一人前”だとラブコメ漫画の主人公が言っていた。
可愛いぶりっ子な演技も、こんな時にしか役には立たない。声に少しだけ色っぽさも滲ませれば、上出来だ。

一か八かのこの作戦も、貴嶋が聞けば美月らしいなと笑ってくれるかもしれない。

『やっとその気になってくれた? 嬉しいよ。美月……』

 男は好きな女の“お願い”に弱い──、とは隼人が言っていたのだが、さすが隼人は男女の仲を知り尽くしているだけあると、妙な感心をしてしまった。

本当に男は女の“お願い”に弱いようだ。ひきつっていた池田の笑みが柔らかいものに変わった。
名前を呼び捨てにされた気持ち悪さは拭えないけれど、今はこの男に従うフリをするしかない。

 男女の駆け引きのアレコレを美月に教えてくれた隼人とラブコメ漫画に、今は感謝だ。

 池田は身を屈めて美月のロープの結び目をほどき始めた。
わざとなのか無意識なのか、首筋や耳元にかけられた池田の息に吐き気が込み上げる。

『はァ……。美月のカラダはいい匂いがするね……。脚を開かせた先にある君の秘密の花園から溢れる美月の蜜はどんな味がするのかなァ……俺は前戯を丁寧にするタイプなんだ。だから美月のカラダの隅々まで舐めて、俺が気持ちよくしてあげるよ』

 行為は次第にエスカレートして彼は美月の耳の裏や首筋を舐め回した。池田はロープをほどきながら、どさくさ紛れに美月のウエストラインや太ももを撫で回している。

『毎晩、美月の裸を想像して眠っていたんだ。夢の中で俺達は身も心も強く結ばれた。美月は腰を振って何度も何度も俺を欲しがって、俺に可愛くおねだりするんだ、“中に出してぇ……”って。俺は美月のお願いを聞いて、何度も何度も君の中で気持ちよく射精するんだ……』

肌を這う舌や手の気持ち悪さも、浴びせられる卑猥なセリフも、今は我慢だ。それでも勝手に自慰の対象にされていたことに不快感が募る。
とにかく、いちいち気持ちが悪い。

『ああ……もう我慢できない。早く君と心も身体もひとつになりたいよ。子どもは男の子と女の子の二人作ろうね。できちゃったならそれ以上でもいいな。俺は一人っ子だから、子だくさんな家庭に憧れていたんだ。夢の中でしたように、美月の子宮にたくさん、俺の精子を注いであげるからねェ……』

 逃げ出さなければ、このまま池田に犯される。こんな男と結婚させられて一生束縛の人生を送るくらいなら、3年前に貴嶋の人形にしてもらっていた方がよっぽどマシだ。

(私が本当にほわほわした天然な女の子だと思ったのなら、大間違いよ。ばーか。このAVエロマンガ脳のセクハラストーカー野郎)

 心の中で池田に向けて盛大な悪口とあっかんべーをして、ロープから解放された瞬間に美月は池田を蹴り飛ばした。

『待て!』

 蹴られた衝撃で仰け反った池田は、すぐに上体を起こして玄関に向かう美月の腕を掴む。必死で抵抗しても男と女の力の差は大きく、美月は簡単に押し倒されてしまった。

床に叩きつけられた背中や腕に痛みが走る。美月に馬乗りになった池田が美月の喉元に両手をかけた。

『俺のものになると今すぐ言え! 誓え!』

 池田の体重で身体と喉を圧迫されて苦しい。息ができない。

一か八かの賭けはどちらに転ぶ?

< 212 / 272 >

この作品をシェア

pagetop