早河シリーズ短編集【masquerade】
 目黒区の道の片隅に乗用車が停車している。
日浦《ひうら》は開けていた運転席の窓を閉めた。片耳に当てたスマートフォンから通話相手の声が聞こえる。

『……はい。たった今、ご自宅に戻られました』
{美月に怪我は?}
『病院で手当てを受けていたようなので、多少は怪我をされているかもしれません』

通話相手は日浦が“ボス”と呼び慕っている男だ。ボスの声は比較的落ち着いているが、ボスが意識的に落ち着き払っていることは日浦には明白だった。

{入院していないのなら、それほど重症ではなさそうだな。美月が無事ならそれでいい}
『今回はボスの予感が当たってしまいましたね』
{池田は美月を尾行していた。何かあるとは思っていたが……}

 美月を拉致監禁した池田の情報は入手済み。彼の出身大学や自宅、携帯電話番号も調べがついている。

『こうなる前に池田を始末するべきでした』
{堅気の人間に手は出さない。一介のサラリーマンの死体が転がれば、警察が不審に思うだろう。結果的に美月は助かったんだ。お前はよくやったよ}

尊敬するボスからの労《ねぎら》いの言葉がこの仕事の何よりの報酬だ。

{むしろ俺の個人的な頼みでお前にこんな仕事をさせていることを、すまないと思っている}

 ボスからの意外な言葉に日浦は誰もいない車内で大袈裟に首を横に振った。

『いいえ、俺はこの仕事を好きでやっていますから。それに……』
{なんだ?}
『その、正直に申しますと、最初はこの任務に戸惑いはありました。何故ボスが、こんなにひとりの女を気にするのか、守ろうとするのか。ひょっとしてボスはロリコンなのではと疑ったことも……』
{お前は正直だな}

電話の向こうでボスが笑っている。日浦は熱が上る赤い顔を掻いて姿勢を正した。

『ロリコンなどと言って申し訳ありません。言葉が過ぎました』
{俺はお前のそういう直球な性格が気に入ってる。それで? 最初はロリコンなボスの命令を忠実に聞いているだけだったのが、今は違うのか?}

 もしやボスはロリコンと言われたことを根に持っているのではないかと、日浦は緊張で汗ばむ片手を膝の上でこすった。
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