早河シリーズ短編集【masquerade】
「イケメンのひとりはミスター啓徳四連覇の伝説の男なんですよね?」
『あいつは伝説ってほど大層な人間じゃないぞ。今は嫁と息子を溺愛するただの親バカだ』
「伝説の男はもう結婚しちゃってるんですか? 残念……」

 何が残念なのかさっぱりわからない。鈴華は椅子から脚を投げ出してばたつかせていた。
彼女が冬でも素足を晒してまでミニスカートにこだわる理由は?

いつか聞こうと思っていても、いつまでも聞けないでいることが人間にはあるものだ。

『俺も君と同じだよ。一番欲しかったものは手に入らなかった。夢も女も、一番欲しいものは諦めた』
「先生の夢って?」
『杉澤のトップ4を知ってるなら俺がバスケ部だったことは知ってるのか?』
「もちろんリサーチ済みです。バスケ部のキャプテンでしたよね。今の先生からは体育会系な雰囲気全然ないから、想像できなかったんですけど」
『まぁ、バスケで飯を食っていくのを夢見ていた時期もあった』

 右横に鈴華の視線を感じる。横目で彼女を見ると鈴華は両手でマグカップを持ってうつむいていた。

「バスケ選手の夢、諦めちゃったんですね」
『諦めたからここにいるんだけどな。現実は甘くない。今だってポスドクから講師に出世できるか未来の保証はない。一生ポスドクかもしれないし、これが俺のやりたいことなのかもわからないままやってる』
「やりたいことなのかわからないのに、やり続けるんですか? どうして?」
『極論を言うと生きるためだな。生きるために働いて稼ぐ、それだけだ』

まだ大学院生の鈴華には、生きるために働くことの意味を完全には理解できていない。
やりたいことしかやらなくていいと思っていた。でもそれだけでは生きていけない。

「渡辺先生ってたまにちゃんとした大学講師っぽいこと言いますよね」
『早くちゃんとした大学講師になりたいものだね』
「先生がポスドクから講師になる頃には私はここを卒業しちゃってるから、先生に指導してもらえる子達が羨ましい」

 鈴華が時間をかけて飲んだコーヒーはカップの中にもうない。空っぽになった二つのマグカップを彼女は流し台に片付けた。

「一番欲しかった女はどんな人だったんですか?」
『幼なじみの初恋の女』
「うわぁ……ベタですね」

背中越しに鈴華の笑い声が聞こえて渡辺も口元を上げた。自分でもベタな恋愛だと思う。

「今度もまたそうやって欲しいのに諦めちゃうの?」

振り向いた先にはこちらを見つめる鈴華がいた。また? 諦める? 何を?

「先生って嘘がつけない人ですよね。そういうところも素敵です。……失礼しました」

 お辞儀をして鈴華が研究室を去った。彼女の最後の言葉の意味に気付いても渡辺は知らないフリを決め込んで、パソコンに向き直った。
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