早河シリーズ短編集【masquerade】
 棚を見上げながら歩いていた彼女は向こうから角を曲がってきた男と肩がぶつかってしまった。

「あっ……! すみません」
『こちらこそ……なぎさ?』

 土産物の棚が並ぶ狭い通路でなぎさと男が向かい合った。男から漂う香りは昔に嗅いだことがある“あの人”の香り……聞き覚えのある声の正体に気付いた彼女は戦慄した。

全身から血の気が引いていく。まさかこんな場所で、こんな時に……。

「……学さん?」
『やっぱりなぎさか。こんな所で会うとは驚いたよ』

 落ち着きのあるトーンの声で呼ばれる自分の名前があの頃は特別だった。でも今はその声で名前を呼ばれてもあの頃のときめきはなく、むしろ嫌悪で吐き気が込み上げてくる。

男の名前は小田切学。早河と出会う前になぎさが不倫の恋に溺れていた相手だ。

『ひとり? ……じゃないよな。君は一人旅が出来る子じゃないし、男と一緒?』
「関係ないでしょっ!」

声を荒くするなぎさを見下ろして小田切はせせら笑う。

『関係ないとは酷いな。俺だって好きだった子のことは気になるよ』
「軽々しく言わないで。私のこと本気で好きだったことなんてないくせに」
『……なぎさ』

 小田切がなぎさに伸ばしかけた手を別の手が遮る。小田切の手を撥《は》ね付けた手は真っ直ぐなぎさに伸ばされ、彼女の手と繋がれた。

『お話し中のところ申し訳ありません。妻に何かご用でしょうか?』

挑発も威嚇もなく自然と早河が小田切となぎさの間に割って入る。小田切は早河を一瞥して一歩下がった。

『ああ……“香道さん”の旦那さんですか?』
『ええ。なぎさはもう香道ではありませんけどね。お知り合いのようですから、お話があるならば私は失礼しますが……』

 言葉とは裏腹に早河はなぎさの手を離さない。なぎさは早河の背中に隠れて顔を伏せていた。
小田切は穏和に笑って片手を振る。

『以前に彼女と仕事をしていた、ただの同僚です。僕も連れがいるので失礼します。それじゃあね、香道さん』

早河の後ろに隠れるなぎさに一声かけて小田切は土産物売り場を去った。
繋いだなぎさの手が震えている。彼女の過剰な防衛反応を見れば事態はただ事ではない。

 早河はなぎさを連れて部屋に戻った。もうすぐ夕食の準備で部屋に仲居がやって来る。
それまでに終わらせなければいけないことがあった。

部屋の座布団になぎさを座らせ、まだ震える彼女の身体を抱き締めた。

『あの男、前に不倫していた奴か?』

 なぎさは無言で頷いた。ほとんど覚えていない記憶ではあったが、早河はなぎさの不倫相手を一度だけ見ている。

一度見ただけの男の顔を正確には記憶していない。それでもなぎさの様子を見れば、あの男がただの同僚や知人程度ではないことは察しがつく。

 彼女がここまでの拒絶を示す相手は早河が知る限りひとりしか考えられない。
妻がいる身でありながらなぎさと付き合い、なぎさは別れた後に男の子どもを身籠り、堕胎した。

あの男は妊娠と中絶の事実も、当時のなぎさがどれだけ心身共に傷付いたかも知らない。兄の死と堕胎が重なって心を壊したなぎさは自殺未遂をしたほどだ。

 あそこからよくここまで立ち直ってくれたと、早河は今でも思う。

「まさかこんな所で会うなんて……」

 早河に抱き付くなぎさの目元は涙で濡れている。よりによって二度と会いたくない男と新婚旅行先で再会してしまった。

「同じ宿なの? なんで? もう嫌……」
『なぎさ、安心しろ。俺が側にいる』

早河がなぎさの背中をさする。彼女は無我夢中で早河にしがみつき、彼を離さないように、彼から離れないように、しっかり抱き付いた彼女は自分から早河にキスをした。
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