早河シリーズ短編集【masquerade】
早河はなぎさを拒まず受け入れる。余裕なんてまったくないなぎさを、早河の優しさが包み込んだ。
『なぎさ』
キスの合間に早河に呼ばれた自分の名前。優しいトーンの彼の声で名前を呼ばれる瞬間がいとおしい。
嫌悪に侵食されていた心も早河の温もりに包まれて次第に落ち着きを取り戻してきた。
早河がトントンと背中を撫でてなぎさと目線を合わせる。泣いた後の赤い目元がまばたきを繰り返していた。
『なぎさには俺がいる。だから大丈夫だ。な?』
「……うん」
なぎさがようやく笑顔を見せる。
『もうすぐ夕食の準備で仲居さんが部屋に来る。洗面所で顔洗って来い。泣き顔見られたくないだろ?』
早河の言うことを素直に聞いて彼女は洗面所に入った。その直後に夕食の配膳準備で部屋に仲居がやって来る。
まずご飯と汁物、刺身や酢の物の折敷が並ぶ。テーブルに料理を並び終えた仲居が下がった頃合いに、なぎさが部屋に戻ってきた。
予想外のトラブルはあったが楽しみにしていた夕食だ。二人は箸を取ってしばし夕食を堪能した。
「あのね、さっきのことでちょっと変な想像しちゃった」
『変な想像?』
「あの人……名前は小田切学って言うんだけど、小田切さんもここに泊まってるなら誰かと一緒ってことだよね」
『連れがいるって言ってたな』
「その連れってあの足湯で会った女の人じゃないかって思って……」
今は折敷は下げられテーブルには煮物が出ている。この旅館は露天風呂だけでなく料理の評判もいいので、どの料理も美味しかった。
『あのよく喋るおばさんか。でもなぁ……そこまでいくと偶然にも程があるぞ』
「でもあの女の人もここに泊まってるって言ってたし……。旦那さんが浮気癖があるってことはあの人が小田切さんの奥さんかもしれない」
そう仮定するとあの婦人を意識的に遠ざけようとする心の動きも説明がつく。これはかつての不倫相手の妻と偶然にも出会ってしまったことからの危険信号ではないのか。
『なぎさは奥さんがどんな人か知らないんだよな?』
「奥さんのことは何も……。小田切さんの家は子どもがいないってことしか知らないの。だけどあの人は私以外にも何人も浮気相手がいて、私はその中のひとりだった。小田切さんは世間知らずな若い女を丸め込むのが上手いのよ。私は遊ばれていただけだった」
彼女は身に付けているネックレスに触れた。ネックレスチェーンの先には金色の指輪が揺れている。
不倫に溺れていた当時の自分の軽率さや小田切への嫌悪と憤りにまた蝕まれそうになるなぎさの心を救うのは、宝物の二つの指輪だった。
左手薬指の早河との結婚指輪、首もとで揺れる金色の指輪は親友の寺沢莉央の形見。
大切な友人が空の上から見守ってくれている。隣には早河がいてくれる。
「心配かけてごめんね。もう大丈夫」
『無理するなよ。何かあればすぐに言うんだ。いいな?』
「仁くんってたまにすごーく過保護だよね」
『過保護とは何だ』
なぎさに注がれた酒を呷《あお》って早河はふて腐れた。
「過保護探偵、早河仁っ!」
『ベタなミステリードラマみたいな名前つけるな』
子どもっぽい軽口は夫婦になる前と変わらない。料理を運んできた仲居にも仲が良いですねと言われてしまった。
『なぎさ』
キスの合間に早河に呼ばれた自分の名前。優しいトーンの彼の声で名前を呼ばれる瞬間がいとおしい。
嫌悪に侵食されていた心も早河の温もりに包まれて次第に落ち着きを取り戻してきた。
早河がトントンと背中を撫でてなぎさと目線を合わせる。泣いた後の赤い目元がまばたきを繰り返していた。
『なぎさには俺がいる。だから大丈夫だ。な?』
「……うん」
なぎさがようやく笑顔を見せる。
『もうすぐ夕食の準備で仲居さんが部屋に来る。洗面所で顔洗って来い。泣き顔見られたくないだろ?』
早河の言うことを素直に聞いて彼女は洗面所に入った。その直後に夕食の配膳準備で部屋に仲居がやって来る。
まずご飯と汁物、刺身や酢の物の折敷が並ぶ。テーブルに料理を並び終えた仲居が下がった頃合いに、なぎさが部屋に戻ってきた。
予想外のトラブルはあったが楽しみにしていた夕食だ。二人は箸を取ってしばし夕食を堪能した。
「あのね、さっきのことでちょっと変な想像しちゃった」
『変な想像?』
「あの人……名前は小田切学って言うんだけど、小田切さんもここに泊まってるなら誰かと一緒ってことだよね」
『連れがいるって言ってたな』
「その連れってあの足湯で会った女の人じゃないかって思って……」
今は折敷は下げられテーブルには煮物が出ている。この旅館は露天風呂だけでなく料理の評判もいいので、どの料理も美味しかった。
『あのよく喋るおばさんか。でもなぁ……そこまでいくと偶然にも程があるぞ』
「でもあの女の人もここに泊まってるって言ってたし……。旦那さんが浮気癖があるってことはあの人が小田切さんの奥さんかもしれない」
そう仮定するとあの婦人を意識的に遠ざけようとする心の動きも説明がつく。これはかつての不倫相手の妻と偶然にも出会ってしまったことからの危険信号ではないのか。
『なぎさは奥さんがどんな人か知らないんだよな?』
「奥さんのことは何も……。小田切さんの家は子どもがいないってことしか知らないの。だけどあの人は私以外にも何人も浮気相手がいて、私はその中のひとりだった。小田切さんは世間知らずな若い女を丸め込むのが上手いのよ。私は遊ばれていただけだった」
彼女は身に付けているネックレスに触れた。ネックレスチェーンの先には金色の指輪が揺れている。
不倫に溺れていた当時の自分の軽率さや小田切への嫌悪と憤りにまた蝕まれそうになるなぎさの心を救うのは、宝物の二つの指輪だった。
左手薬指の早河との結婚指輪、首もとで揺れる金色の指輪は親友の寺沢莉央の形見。
大切な友人が空の上から見守ってくれている。隣には早河がいてくれる。
「心配かけてごめんね。もう大丈夫」
『無理するなよ。何かあればすぐに言うんだ。いいな?』
「仁くんってたまにすごーく過保護だよね」
『過保護とは何だ』
なぎさに注がれた酒を呷《あお》って早河はふて腐れた。
「過保護探偵、早河仁っ!」
『ベタなミステリードラマみたいな名前つけるな』
子どもっぽい軽口は夫婦になる前と変わらない。料理を運んできた仲居にも仲が良いですねと言われてしまった。