早河シリーズ短編集【masquerade】
 隣の早河はまったくの無言で身動きひとつしない。梨乃が早河を好きだと知ってからは、早河と顔を合わせてもそのことばかり気になって早河と上手く話せなくなった。

梨乃の手作りレモンケーキは早河の手元に渡ったようだが彼はちゃんと食べたのか?

(あの様子じゃ梨乃と早河さんが付き合うことはまずないんだろうな)

 梨乃がレモンケーキを作った翌日の夕食は早河も一緒だった。
食事中も梨乃と早河を観察していたが梨乃は早河の顔をちらちら見るだけ。早河の方は梨乃のことはまるで眼中になく、梨乃の一方的な片想いなことは誰の目から見ても明らかだ。

あれほどのわかりやすさだと親の武田夫妻にも梨乃の気持ちは知られているはず。
むしろ梨乃が早河に対してここまでわかりやすい態度をとっていながら、今まで気付かなかった自分の鈍さに矢野はショックを受けていた。

 なだらかなカーブを抜けて車が停車した。秘書が開けた扉から武田が降りて、反対側の扉から早河と矢野が降りる。

車を降りた瞬間に視界を占拠する景色に矢野は絶句した。渋谷や新宿の夜とも違う、艶やかな煌めきが目の前に広がっていた。

『一輝は銀座は初めてか?』
『そりゃあこの歳で銀座に来たことある方がおかしいって』

 銀座の夜は輝きに溢れていた。
豪快に笑って闊歩する武田の後ろをついて銀座の街を物珍しげに見る矢野、武田と矢野の一歩後ろを下がって早河が歩く。

早河は銀座の街にもあまり驚いていなさそうで街の景色にも無関心に歩を進めていた。

 灰色のレンガ造りの建物の前で武田が立ち止まり、彼は秘書が持ってきた手鏡でネクタイのずれや髪型を確認している。
矢野はライトが当たる看板に照らし出されたアルファベットのmerciの文字を凝視した。

『メ……メル……?』
『メルシー。フランス語だ』

横から早河が読み方を教えてくれた。
これでも進学校に通う身だ。この程度のスペルは読めると憤慨しつつ、フランス語だとは思わなかった矢野は小さく舌打ちした。

 武田に続いていざ建物の中へ。まばゆい光を放つシャンデリア、女達の品のいい笑い声、グラスが重なる音、見るものすべてが初めて目にする光景だった。

案内された席に座っていても矢野は見慣れない光景にそわそわと落ち着かない。落ち着きのない矢野とは違って、早河は普段通りのクールな表情を崩さずにソファーに座ってまた目を閉じていた。

『なぁ伯父さん。ここって酒出す店だろ。未成年の俺がこんな所にいていいの?』
『何言ってる。保護者の私がいるんだ。心配するな。それにこの店は私のモノでもあるからな』
『伯父さんのモノ? どういうこと?』
『金は私が出した、と言うことだ。おお、来た来た』

 白色の着物を纏う女性が赤紫の絨毯の上を淑《しと》やかに歩いてくる。その立ち姿は高潔な大輪の花のようで矢野は彼女から目が離せなかった。
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