早河シリーズ完結編【魔術師】
 ヤヨイは真紀の本名も年齢も、誕生日も知っている。
住所だけは古い住所しか知らないが、真紀の中学2年生から3年生までの1年間で、東京都に住む小山真紀の個人情報は広島県在住のヤヨイという女の子に伝わっていた。

 高校1年生になったヤヨイがどんな高校生活を送ったのか、真紀は知らない。
ヤヨイと文通友達だった同級生のユキコとも中学を卒業してからは疎遠になり、ヤヨイもユキコも真紀が警察官になって警視庁で働いているとは思いもしていないだろう。

 本名や住所が悪用されたりはしなくても、きっと“たまたま、犯罪に利用されなかっただけ”なのだ。

 身体が酷く疲れていた。精神的にもやりきれない想いを抱えて、真紀は自販機の側のソファーに腰を降ろす。
磨き上げられた黒の革靴が真紀の目の前で止まった。顔を上げた彼女は慌てて立ち上がる。

「阿部警視監っ!」

真紀の前に立つのは警察庁刑事局長の阿部知己警視監。部下を引き連れていた阿部は部下だけを先に行かせて、真紀が座っていたソファーに座った。

『だいぶ疲れてるようだな』
「あまり寝ていないので……」
『座っていろ。俺達には休息も必要だ』

 阿部は警察庁のエリート幹部だ。加えて独特のオーラを放つ彼は何度顔を合わせても緊張する相手でもある。
真紀は恐る恐る阿部の隣に座った。

『浮かない顔をしていたな。どうした?』
「……篠山警視はどうなるのでしょう?」
『処分はこれから決める。過去の隠蔽も含めて重い処罰が下ることになるだろう』

阿部が長い脚を組んだ。汚れひとつない革靴はいつも彼自身が毎朝磨くそうだ。
以前、阿部の自宅に招かれた時に阿部の妻が話していた。

「正直言うと、篠山警視の性格は苦手でした。でも男社会の警察で生き抜く彼女を尊敬もしていました。あんなに強い人が貴嶋に唆《そそのか》されて利用されるなんて……今でも信じられません」

 苦悩する真紀を阿部は無言で見ている。元来、口数の多くない阿部はフォローの一言も言わずに、背広のポケットからピンク色の折り紙で作られた動物を出した。

「それは……うさぎですか?」
『だと思う。紗菜《さな》が作ってくれた。最近折り紙にハマってるんだ。家に帰ると部屋に折り紙が散乱してる』

紗菜とは阿部の5歳になる娘だ。阿部には三人の子どもがいて、上の二人は小学生の息子だ。

『子どもは不思議だよな。昨日は折り方に苦戦していても、次の日には簡単に折れるようになってる。このうさぎも折り目に何度も格闘した跡があるだろ?』
「はい。本当に子どもはどんどん成長していきますよね」

 折り目がいくつもついたピンク色のうさぎを阿部は愛しそうに撫でている。彼の鋭い眼光も、子どもの話をする時は父親の優しい眼差しに変わる。

『まだ事件は終わっていない。子ども達も捕らわれたままだ。今は余計なことは考えずに目の前の事件を追え。それがお前の役割だ』

 言葉は少ないながらも端々に阿部なりの優しさを感じた。

『篠山恵子に代わって捜査本部の総指揮を上野警視に任せた。小山は自由に動けばいい。もしもの場合の責任は俺がとる。思うようにやれ』

折り紙のうさぎを丁寧にポケットに戻して阿部は立ち上がる。真紀は廊下を去る阿部の背中に深く頭を下げた。
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