早河シリーズ完結編【魔術師】
 あれは少し肌寒い夏の夜
昼間に降っていた雨は止んでいて空には綺麗な丸い月が見えた

あの人の身体から感じた香りは甘くて切なくて、胸の奥がきゅっと締め付けられて苦しくなる香りだった

私はあの人の腕の中でこのまま時が止まればいいと願いながら眠りについた……

        *

 ──波の音が聞こえた。甘くて切ない夢幻のBGMが心地よく流れている。

 美月は閉じていた瞼を上げた。無意識に触れた目元には涙が滲んでいた。
夢を見ていた。12年前の一瞬の永遠が見せた、儚い幻の夢を……。

 夢の余韻が美月の意識を鈍らせる。さらりとした質感のシーツが頬に触れた。
衣擦れの音をさせて身体を起こす。シーツと同じ質感の白い掛け布団が身体を覆っていた。

(あれ? 私……なんで……)

ここはどこだろう。何故こんな場所で眠っていた?

(亮くんと泉ちゃんがお見舞いに来てくれて、その間に病院のランドリーで洗濯して……)

 それから何があった?
そうだ、ランドリーにあの人が現れた。じっとこちらを見ている視線がなんだか気味が悪かった。

突然、吸入器のような物を口に当てられて匂いのない気体を嗅がされた。助けを呼ぶ声をあげたくても、口に当てられた吸入器が邪魔をして叫ぶこともできず、次第に意識が朦朧として全身の力が抜ける感覚があった。以降の記憶はない。

(あの人が私を? でもどうして? あの人は……)

『お目覚めかな? お姫様』

 ぼうっとした脳裏に前触れなく届いた声に、美月は驚いて肩を跳ねさせた。今まで気が付かなかったが、ほの暗い部屋の一角でロッキングチェアーが揺れている。

『間もなく夜が明ける。薬の影響があるとは言え、よく寝たねぇ。この数日ろくに寝ていなかったんだろう?』

 慇懃でゆったりとした口調は以前にも聞いた覚えのある声だ。ロッキングチェアーは一定のテンポを刻んで前後に揺れ、投げ出された長い脚も揺れていた。

この状況下で聞く“彼”の声に美月は事態を察した。実に笑えない冗談だ。
これが夢であったなら苦笑いでも溢せるのに、目の前にいる彼は紛れもなく現実だ。

 ロッキングチェアーの揺れがぴたりと止まる。椅子を離れた彼が美月のいるベッドに歩み寄った。

灯りの乏しい室内でも、暗がりに目が慣れた頃には近づく彼の輪郭や表情の目視が可能だった。彼の正体をはっきり悟った美月の身体は緊張で硬直する。

「キング……」
『そんなに警戒しないで。楽にしていていいよ』

 貴嶋佑聖はにこやかに微笑んで大きなベッドの端に腰かけた。美月は掛け布団を引き寄せて貴嶋と距離を取る。
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