早河シリーズ完結編【魔術師】
 斗真の小さな手が真愛の身体を揺らす。身体の前で縛られた両手を必死に動かして彼は隣で眠る真愛を揺り動かした。

『まなちゃん、まなちゃん』
「ん……なぁに?」
『おそとがうるさいよ』
「お外?」

 寝起きの目をぱちぱちとさせて真愛は耳を澄ませる。部屋の外で物音が聞こえた。
音の方向はわからない。あっちにもこっちにも、色んな音が溢れていて騒がしかった。


 ──まなー!──


「……ママ?」

 溢れる音の中に母親の声が紛れていた。再び耳を澄ます。斗真も息を潜めていた。
また聞こえた。今度はもっとはっきりと、真愛の名を呼ぶ母親の声だ。

「ママだ! ママの声! ……ママー!」

真愛は学校の先生に挨拶するよりもさらに大きな声で、自分の存在を主張した。

        *

 木犀館は都内の一般的な戸建て住宅よりも広い造りだった。フローリングの長い廊下の左側はキッチンと居間があり、人の姿はない。
なぎさは廊下の奥へ進んだ。廊下の中腹に階段がある。途中でL字に折れ曲がるかね折れ式の階段の上から声が聞こえた。


 ──ママー!──


「真愛? 真愛なのっ?」


 ──ママ! 真愛はここにいるよ!──


 真愛の声で間違いない。頭で考えるよりも身体が先に動いていた。階段を駆け上がって二階の廊下に出た彼女は身を固くする。

一階に人の気配がなかったことを、もっと不審に思うべきだった。階段を上がった先の廊下に黒髪を後ろに束ねた若い女が待ち伏せていた。

 早河と大西が表で格闘中の男二人はアメリカ人だったがこの女は見た目は日本人、もっと広範囲で言えばアジア系だ。
外見の印象は真愛が通っていた保育園の保育士に似た人がいる。確か名前は野本先生だ。

しかし、虚ろな目をした女は正常な精神状態とは言えない様子だ。
9年前に貴嶋が催眠効果を仕掛けて脱獄させた元女優の犯罪者と接触したことがある。この女の狂気染みた状態は、あの時の元女優を彷彿とさせる。

(この人を倒さないと真愛達を助けられない)

まだ早河と大西は格闘の最中だ。彼らが来るまでの間、なぎさがひとりでこの場を乗り切らなければ。

「行かせない。ここから先は行かせない」

 女は抑揚の乏しい口調で呟いた。手には果物ナイフが握られ、ジリジリとなぎさに詰め寄ってくる。
もしもの事態に備えて用意していたアレを使う時だ。早河からも使用許可は出ている。

 なぎさはコートのポケットから取り出した小型の催涙スプレーを突進してくる女の顔めがけて噴射した。
催涙スプレーは催涙成分によって目や顔全体に激痛が走り、相手を行動不能にさせる効果がある。効果の持続時間は1時間から3時間。

スプレーを吹き掛けられた女は痛みに悲鳴をあげてうずくまった。果物ナイフは女の手から滑り落ちて床に転がった。

 痛みに苦しむ様子に一抹の罪悪感を抱きながらもなぎさは彼女の片手に手錠をかけ、片方の手錠の輪を階段の手すりに繋いだ。催涙スプレーも手錠も防犯グッツとして市販で売られている物だ。

「真愛! そこにいるのっ?」
「ここにいるよ! 斗真くんも一緒!」

 廊下に並ぶ四つの扉のうち、なぎさから見て右から二番目の扉から真愛の声がした。扉には鍵がかかっている。叩いても押してもびくともしない。
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