早河シリーズ完結編【魔術師】
 世界の果てを連想させる静寂の中で波の音が哀しげな旋律を奏でる。

 それは封印の旋律
 それは祈りの旋律
 奏でる音色は誰に捧げる鎮魂歌《レクイエム》?

 己の魂を旋律に宿して天高く舞い上がれ
 これは愛と言う名の、レクイエム……

 ヴァイオリンの旋律が優しさと物悲しさの余韻を残して終わる。儚い調べに空気が震えていた。

「凄い……」

 ソファーに腰掛ける美月は、拍手をするのも忘れて放心した表情でヴァイオリンを持つ貴嶋を見つめる。貴嶋は構えていたヴァイオリンを下ろして一礼した。

「今の曲、どこかで聴いたことがある」
『メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲だよ。有名だから耳にしたこともあるだろうね。莉央が好きだった曲だ』

年代物と思われるヴァイオリンは素人の美月の目から見ても高級品だとわかる。貴嶋はヴァイオリンをケースに収めた。

『ヴァイオリンのメロディは悲劇的で破滅的だ。だから好きだと莉央は言っていたよ』

 部屋のテーブルにはアフタヌーンティーの用意がされている。
アフタヌーンティーのテーブルセッティングをしたのは、日本語が片言な中国系の女と日本人の若い男だった。

男の方は動きが左腕を庇っているように見えた。左腕に怪我をしているのかもしれない。
病院から美月を連れ去った“あの人”の姿はここでは見掛けなかった。

 アフタヌーンティーの間、貴嶋は亡き恋人の莉央との思い出話を語ってくれた。
貴嶋と莉央が数年を過ごした、アメリカのカリフォルニア州にあるパサデナという街を美月は知らなかった。世界には自分が知らない街が沢山ある。
貴嶋が語るパサデナの街並みはとても魅力的で、いつか訪れてみたいと思えた。

「莉央さんの前でもキングはヴァイオリンを演奏したの?」
『何度かあるよ。莉央にもヴァイオリンを弾かせてみたことがあるんだ。けれど彼女は演奏者よりも聴き手が性に合っていたらしくてね。美月はケーキはもう食べないのかい?』

 美月の隣に腰を降ろした貴嶋はティーポットの紅茶をカップに注いだ。ガラス製の三段ケーキスタンドには色とりどりのプチケーキが並んでいる。

「じゃあその……二段目の苺が乗ってる……」
『これかな? 美月は苺のケーキが好きだね』

彼は苺のプチケーキを盛った皿を美月の前に置いた。甘いケーキの香りに包まれた優雅なお茶会の雰囲気に酔いしれてしまいそうになるが、アフタヌーンティーを共に過ごす相手が逃亡中の脱獄犯であることは、もちろん忘れてはいない。
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