早河シリーズ完結編【魔術師】
 食後の紅茶を飲み終えた美月は部屋のバルコニーに出ていた。部屋では給仕のバルバトスが黙々と晩餐の片付けを行っている。

片付けを手伝おうとしたが、素っ気なく断られてしまった。アフタヌーンティーの用意をしてくれたグレモリーとは少し打ち解けられたのに、どうにもバルバトスには敵意を向けられているようだ。

 身に覚えのない敵意。生きていれば知らない間に人に恨まれていることもある。
真面目に生きていても、堕落していても、誰も傷付けずに生きていくのは不可能だ。

 バルコニーから見える景色は暗黒色の海。すぐ側の道を走る車のライトと頭上の白い月だけが、明かりとして灯っていた。

潮の薫りと冬の空気が同時に流れる。

肌寒さは感じるが、防寒は肩に巻いた厚手のショールで充分だった。このショールは貴嶋が貸してくれた物。
ショールからは貴嶋がつけているコロンの香りがする。不思議と心が落ち着く匂いだった。

 食後のティータイムを中座して以降、貴嶋は部屋に戻ってこない。彼はどこに行った?

(キングはまさか……)

一瞬よぎった胸騒ぎはどんどん膨らんでいく。吐く息は白くなって潮の香りを含む空気に拡散された。

 夜の海は暗く深く、あの中に入れば二度と地上に上がれない恐怖を孕んでいる。
怖いのに惹き付けられる美しさ。怖いのにもっと知りたいと思う。一度知れば、知らなかった頃には戻れない。
夜の海は貴嶋佑聖そのものに見えた。

 カーテンがなびく向こう側にゆらりと大きな影が立っている。影は音を消してバルコニーに佇む美月に忍び寄った。

気配を感じて振り向いた美月の目の前に銀色の刃先が飛んで来る。彼女は俊敏な動きで刃先から逃れた。

『チッ。トロいようで意外と反射神経いいんだな』

 美月にナイフを向けたのはバルバトスだ。ナイフを避けた拍子で、肩に羽織っていたショールが滑り落ちた。

『全部お前のせいだ……! お前さえいなくなればあの方はまた偉大な王に戻られるっ!』
「偉大な王? キングのこと?」

バルバトスの言っている意味がわからない。血走った目をした彼は、完全に理性を失っている。話の通じる相手ではない。

『お前ごときが気安くあの方の名前を呼ぶな!』

 再び銀の刃が振り下ろされる。美月は男の攻撃を避けたが、勢い余ってバルコニーの柵に身を乗り出してしまった。
< 142 / 244 >

この作品をシェア

pagetop