早河シリーズ完結編【魔術師】
 バルバトスはナイフを捨てて美月の首を両手で強く掴んだ。

『ちょうどいい。ここから突き落としてやる』

 首を絞められて息ができない。柵に身を乗り出した身体は仰け反り、もがいた手は虚しく宙を切る。
五階から落ちれば命の保証はない。その前に首を絞められて殺されてしまう。

(苦しい……助けて……佐藤さん……)

 声も出せない。愛しいあの人の名前を、心で叫ぶ美月の目に浮かぶ涙が頬を流れる。

新入社員時代に同期の男に監禁されて首を絞められたことがある。死期を感じたあの時の美月も、貴嶋に受けた最大の難問の答えを探し求めていた。


 ──“この世に神はいると思う?”──


 9年前に神はいないと語った貴嶋は、今でも神を信じていないのかもしれない。神になろうとした男は、誰よりも神を信じていなかった。

(キング。私は今でも信じてるよ……)

次第に遠退く意識。全身の機能が停止する瞬間だった。

『……うっ』

 男の呻き声と共に首の拘束が解かれる。圧迫から解放された美月は激しく咳き込んで崩れ落ちた。

『美月! しっかりしろっ!』

耳元で聞こえる声は心の中で名前を叫び続けていた彼のもの。美月が倒れ込んだ腕の中は、彼女にとってこの上ない安心感に包まれていた。

「……佐藤さ……ん」
『大丈夫か?』

 抱き寄せられた胸元から顔を上げる。愛しい彼の顔が濡れた視界越しに見えた。佐藤が美月の身体を支えてバルコニーから退避する。

『待て!』

バルバトスの太ももにはフォークが刺さっていた。あのフォークは晩餐の時のカトラリーの一部だ。
引き抜いたフォークの先端に付着した血液が生々しく煌めいた。

 負傷した太ももを庇いながら、バルバトスは床に捨てたナイフを持って逃げる二人を追う。首を絞められて体力を消耗していた美月は足がもつれて上手く歩けない。

客室を横切って廊下に出ようとした二人を阻むのは、部屋の外にいたもうひとりの男。

『バルバトス。お前は女を確保しろ』

部屋の前にいる大柄な男が指令を出す。男の手には銃が握られ、照準は佐藤に向いていた。

『OK。アモン』

 バルバトスとアモン、ソロモン72柱の悪魔二人が美月と佐藤を挟み撃ちにして詰め寄ってくる。

佐藤は懐から取り出した銃のセイフティを解除した。馴染みの武器商人は佐藤の好みをわかっているだけあり、銃は使い慣れているマカロフだ。
佐藤の銃を見た美月が息を呑む。

「佐藤さん……」
『心配するな。俺に任せろ』

 バルバトスとアモンが同時に動く。佐藤はバスルームに美月を隠し、美月を守るように浴室の扉の前に立った。

まずアモンの左腕目掛けて一発弾丸を放つ。アモンも佐藤に発砲するが、動きは佐藤の方が速かった。アモンの撃った弾はドレッサーに当たって鏡が粉々に砕け散った。

 バスルームに隠れる美月は空の浴槽に身を屈めて男達の撃ち合いに震えた。鍵がかかる扉一枚隔てた先から聞こえる銃声、ガラスの割れる音、怒鳴り声、ぞっとする男達の殺気が恐ろしかった。
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