早河シリーズ完結編【魔術師】
病室の手前に設置された消毒スプレーで念入りに手指消毒をして、早河なぎさのプレートがかかる病室の扉をスライドさせた。
なぎさが早河を見て微笑んだ。彼女はベッドの側に置かれたケースに向けて小声で話しかける。
「パパが来たよー」
なぎさの視線の先には、小さな命がいた。早河もケースに近付いて小さな小さなその命を見つめる。
一昨日に生まれた早河家の長男だ。
『寝てるのか?』
「さっきまで起きてたんだけど、寝ちゃったみたいだね」
『父親が会いに来たのに気持ちよさげに寝やがって』
無垢な寝顔の長男の頬に触れる。温かく柔らかな感触に癒された。赤ん坊には皆等しく、人を幸せにする力がある。
出生届はまだ提出していないが、息子の名前は決まっていた。匠《たくみ》だ。
「真愛との二人きりの生活はどう?」
『初っぱなから大失態。朝寝坊して真愛に叩き起こされた』
「やっぱり。思った通りね」
くすくす笑うなぎさの側で早河はふて腐れた。早河の朝寝坊はどうやら彼女の読み通りらしく、気に入らない。
『笑い過ぎ』
彼は笑い続けるなぎさの唇をキスで塞いだ。
「もう。誰か来たらどうするの?」
『誰も来ない、誰も来ない』
「でも匠が側にいるよ?」
『寝てるし、まだ何をしているかわからないさ』
屁理屈をこねる早河は小学生の真愛よりもワガママな子どもに見える。なぎさは困り顔で苦笑いして、早河ともう一度キスをした。
二人きり? いえいえ。
ここに僕がいるよ──。小さな命が奏でる寝息が、そう言っていた。
*
産婦人科を出た早河は家に帰って太陽の匂いを存分に含んだ洗濯物をとりこみ、一息入れる暇もなく真愛を迎えに、東中野小学校まで車を走らせた。
今日は真愛を連れて再び産婦人科に寄って、その後は月に二度の精神科クリニックでのカウンセリングが待っている。
真愛は今年1月にある犯罪計画に巻き込まれて誘拐された。幸い体の外傷はなかった。しかし後に残ったのは心のダメージだ。
天性の性格の明るさでカバーされているが、真愛は心に傷を負っている。
あの誘拐事件の後は暗闇を怖がり、監禁されていた時に手足を縛られていた恐怖心から、手や足を何かで縛られることを極度に嫌がるようになった。
以前はつけていたお気に入りのビーズのブレスレットも怖がってつけられなくなってしまったほどだ。
あの時の記憶を本人は忘れたつもりでも、心と身体が感じた恐怖心は消えない。その恐怖心から無意識に身を守るための防御や拒絶反応が、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を生じてしまった。
真愛が誘拐の標的にされたのは真愛が早河の娘だから。真愛が生まれた時、娘を全力で守ると誓ったのに守りきれなかった。
なぎさが早河を見て微笑んだ。彼女はベッドの側に置かれたケースに向けて小声で話しかける。
「パパが来たよー」
なぎさの視線の先には、小さな命がいた。早河もケースに近付いて小さな小さなその命を見つめる。
一昨日に生まれた早河家の長男だ。
『寝てるのか?』
「さっきまで起きてたんだけど、寝ちゃったみたいだね」
『父親が会いに来たのに気持ちよさげに寝やがって』
無垢な寝顔の長男の頬に触れる。温かく柔らかな感触に癒された。赤ん坊には皆等しく、人を幸せにする力がある。
出生届はまだ提出していないが、息子の名前は決まっていた。匠《たくみ》だ。
「真愛との二人きりの生活はどう?」
『初っぱなから大失態。朝寝坊して真愛に叩き起こされた』
「やっぱり。思った通りね」
くすくす笑うなぎさの側で早河はふて腐れた。早河の朝寝坊はどうやら彼女の読み通りらしく、気に入らない。
『笑い過ぎ』
彼は笑い続けるなぎさの唇をキスで塞いだ。
「もう。誰か来たらどうするの?」
『誰も来ない、誰も来ない』
「でも匠が側にいるよ?」
『寝てるし、まだ何をしているかわからないさ』
屁理屈をこねる早河は小学生の真愛よりもワガママな子どもに見える。なぎさは困り顔で苦笑いして、早河ともう一度キスをした。
二人きり? いえいえ。
ここに僕がいるよ──。小さな命が奏でる寝息が、そう言っていた。
*
産婦人科を出た早河は家に帰って太陽の匂いを存分に含んだ洗濯物をとりこみ、一息入れる暇もなく真愛を迎えに、東中野小学校まで車を走らせた。
今日は真愛を連れて再び産婦人科に寄って、その後は月に二度の精神科クリニックでのカウンセリングが待っている。
真愛は今年1月にある犯罪計画に巻き込まれて誘拐された。幸い体の外傷はなかった。しかし後に残ったのは心のダメージだ。
天性の性格の明るさでカバーされているが、真愛は心に傷を負っている。
あの誘拐事件の後は暗闇を怖がり、監禁されていた時に手足を縛られていた恐怖心から、手や足を何かで縛られることを極度に嫌がるようになった。
以前はつけていたお気に入りのビーズのブレスレットも怖がってつけられなくなってしまったほどだ。
あの時の記憶を本人は忘れたつもりでも、心と身体が感じた恐怖心は消えない。その恐怖心から無意識に身を守るための防御や拒絶反応が、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を生じてしまった。
真愛が誘拐の標的にされたのは真愛が早河の娘だから。真愛が生まれた時、娘を全力で守ると誓ったのに守りきれなかった。