早河シリーズ完結編【魔術師】
抱き締められた時に佐藤から香る懐かしい匂いを吸い込んだ。覚えのあるこの香りは永遠と絶望の一夜の香り。
白く輝く月の下で叶わない未来を願った、夢境の香り。
「あなたの香り……昔と同じなのね。この香りを嗅ぐと佐藤さんのこと思い出しちゃうもん」
『美月のためにずっと変えてない』
甘い言葉を囁かれて頬を染める美月は、佐藤の前ではいつまでも出会った頃の、17歳の浅丘美月のままなのかもしれない。
ひとり遊びをしていた美夢が美月と佐藤を目指してたどたどしく歩いてきた。まだハイハイの方がよく動けるが、最近は少しずつ歩ける歩数が増えている。
美月が美夢を呼ぶ。母親に呼ばれた美夢は嬉しそうに笑って彼女の膝の上のゴール地点に辿り着いた。
美月の膝の上で機嫌を良くした美夢は佐藤に小さな手を伸ばす。佐藤が美夢に触れると、小さな手が佐藤の手をぎゅっと掴んだ。
美月の胎内から産まれた生命に触れる心地は、殺伐とした世界に生きる佐藤を柔らかな気持ちにさせる。
「佐藤さんに抱っこして欲しいみたい」
『抱っこって……いいのか?』
「うん」
美月の膝から佐藤の膝に美夢が移動する。
1歳の女の子の身体の重みが加わり、佐藤は恐る恐る美夢に触れて小さな身体を支えた。力加減を間違えると潰してしまいそうな、柔らかな抱き心地だった。
「しばらく美夢を頼めるかな? コーヒーの用意してくる」
『ああ……』
母親不在の間、美夢の世話を任された佐藤は美夢を落とさないように支えながら、テーブルにある絵本に手を伸ばした。
〈どうぶつかくれんぼ〉とタイトルが入る1歳児向けの本だ。佐藤が絵本のページをめくってやると美夢は木の後ろに隠れたゾウを指差した。
「あー、わん、わん」
『こっちにもいるよ』
「わん、わん!」
このくらいの年頃はまだ何を見てもワンワンやブーブーとしか言えない。佐藤が指差したキリンを見て、美夢は手足をばたつかせて喜んだ。
美夢の子守りをする佐藤の姿は父親そのものだった。対面式のキッチンからリビングの二人の様子を眺めていた美月の心が二つに引き裂かれる。
二度と辿れない時間を巻き戻せればいいのに。
もしも佐藤と結婚していたなら、彼はこんな風に子どもの世話を焼く子煩悩な父親になっていただろう。叶わない未来の夢を今もまだ見ている。
(バカだなぁ私。佐藤さんが結婚したかった人は彩乃さんなのにね)
佐藤の婚約者の片桐彩乃が事件に巻き込まれて自殺さえしなければ、佐藤は犯罪者になることなく彩乃の夫として、彼女との間に産まれた子どもの父親になっていた。
佐藤が彩乃と結婚していれば美月と出会うことも、ましてや恋愛することもなかった。
(叔父さんのペンションに佐藤さんが泊まりに来たとしても、私には見向きもしなかっただろうね)
白く輝く月の下で叶わない未来を願った、夢境の香り。
「あなたの香り……昔と同じなのね。この香りを嗅ぐと佐藤さんのこと思い出しちゃうもん」
『美月のためにずっと変えてない』
甘い言葉を囁かれて頬を染める美月は、佐藤の前ではいつまでも出会った頃の、17歳の浅丘美月のままなのかもしれない。
ひとり遊びをしていた美夢が美月と佐藤を目指してたどたどしく歩いてきた。まだハイハイの方がよく動けるが、最近は少しずつ歩ける歩数が増えている。
美月が美夢を呼ぶ。母親に呼ばれた美夢は嬉しそうに笑って彼女の膝の上のゴール地点に辿り着いた。
美月の膝の上で機嫌を良くした美夢は佐藤に小さな手を伸ばす。佐藤が美夢に触れると、小さな手が佐藤の手をぎゅっと掴んだ。
美月の胎内から産まれた生命に触れる心地は、殺伐とした世界に生きる佐藤を柔らかな気持ちにさせる。
「佐藤さんに抱っこして欲しいみたい」
『抱っこって……いいのか?』
「うん」
美月の膝から佐藤の膝に美夢が移動する。
1歳の女の子の身体の重みが加わり、佐藤は恐る恐る美夢に触れて小さな身体を支えた。力加減を間違えると潰してしまいそうな、柔らかな抱き心地だった。
「しばらく美夢を頼めるかな? コーヒーの用意してくる」
『ああ……』
母親不在の間、美夢の世話を任された佐藤は美夢を落とさないように支えながら、テーブルにある絵本に手を伸ばした。
〈どうぶつかくれんぼ〉とタイトルが入る1歳児向けの本だ。佐藤が絵本のページをめくってやると美夢は木の後ろに隠れたゾウを指差した。
「あー、わん、わん」
『こっちにもいるよ』
「わん、わん!」
このくらいの年頃はまだ何を見てもワンワンやブーブーとしか言えない。佐藤が指差したキリンを見て、美夢は手足をばたつかせて喜んだ。
美夢の子守りをする佐藤の姿は父親そのものだった。対面式のキッチンからリビングの二人の様子を眺めていた美月の心が二つに引き裂かれる。
二度と辿れない時間を巻き戻せればいいのに。
もしも佐藤と結婚していたなら、彼はこんな風に子どもの世話を焼く子煩悩な父親になっていただろう。叶わない未来の夢を今もまだ見ている。
(バカだなぁ私。佐藤さんが結婚したかった人は彩乃さんなのにね)
佐藤の婚約者の片桐彩乃が事件に巻き込まれて自殺さえしなければ、佐藤は犯罪者になることなく彩乃の夫として、彼女との間に産まれた子どもの父親になっていた。
佐藤が彩乃と結婚していれば美月と出会うことも、ましてや恋愛することもなかった。
(叔父さんのペンションに佐藤さんが泊まりに来たとしても、私には見向きもしなかっただろうね)