早河シリーズ完結編【魔術師】
『……恵子』
二人きりの時に組織内の呼称で呼ぶ必要はない。慣れた口調で恵子の名を呼ぶ上野の声には、冷ややかな棘が含まれていた。
『どうでもいいが、胸の辺りのボタン、取れかかってるぞ』
上野に指摘されて恵子はシャツのボタンを確認する。第三ボタンから糸が伸びて今にも取れてしまいそうだ。
先刻の長谷部との一夜でこうなってしまったのだろう。暗闇の会議室でシャツを身に付けた時には気が付かなかった。
「あなたって昔からどうでもいいところはよく見てるのね」
彼女は動じずに胸元のボタンを押さえて部屋を出ていった。
恵子の気配が去った応接室でひとりになった上野は、スマホの通話を部下の小山真紀に繋げる。
{篠山警視が美月ちゃんの聴取を?}
『念のためお前も立ち会ってくれ。もし篠山警視が立ち会いを拒絶した場合は、お前の立ち会いの下でなければ聴取はさせないと言えばいい』
{そんなこと、あの人に言って大丈夫でしょうか?}
真紀は威勢もいい、度胸もある。だが指揮官の立場にいる恵子に進言することにはさすがに躊躇いがあるようだ。
『心配するな。俺からの命令だと言っておけ。だいたい、美月ちゃんの担当は俺の班だ。彼女の聴取に俺の班の人間が立ち会うのは当然のこと。それに……小山、頼む。美月ちゃんを守ってやってくれ』
{……はい。わかっています。私も篠山警視だけに美月ちゃんの聴取を任せられません}
『頼んだぞ』
真紀に言い含めて通話を終えた彼は、ソファーに寝そべって明るい天井を見つめた。
捜査に私情は挟まない──。警察官の鉄則だ。
(俺はこの12年、刑事としてではなくひとりの人間としてあの子に接してきた)
初めて彼女と出会ったのは12年前の8月。ある事件の捜査で静岡まで出掛けた帰りに嵐に見舞われた。
運悪く車のタイヤがパンクして立ち往生していた矢先、上野はあのペンションに辿り着いた。その時には、まさか宿泊先で殺人事件が起きるとは思いもしなかったが。
そのペンションに彼女はいた。ペンションオーナーの姪、木村美月。結婚前の旧姓は浅丘美月。
優しくて真っ直ぐな瞳をした17歳の少女だった。
殺人事件の犯人の佐藤瞬と美月は恋仲となり、佐藤を失った美月はASD(急性ストレス障害)を患った。心を壊してしまった彼女の笑顔を取り戻したかった。
もう一度、笑って欲しかった。
あの頃の17歳の美月と現在の美月が重なる。上野や彼女の両親、精神科の医師がどれだけ尽力しても、一度壊れた少女の心を治すのは容易ではない。
二人きりの時に組織内の呼称で呼ぶ必要はない。慣れた口調で恵子の名を呼ぶ上野の声には、冷ややかな棘が含まれていた。
『どうでもいいが、胸の辺りのボタン、取れかかってるぞ』
上野に指摘されて恵子はシャツのボタンを確認する。第三ボタンから糸が伸びて今にも取れてしまいそうだ。
先刻の長谷部との一夜でこうなってしまったのだろう。暗闇の会議室でシャツを身に付けた時には気が付かなかった。
「あなたって昔からどうでもいいところはよく見てるのね」
彼女は動じずに胸元のボタンを押さえて部屋を出ていった。
恵子の気配が去った応接室でひとりになった上野は、スマホの通話を部下の小山真紀に繋げる。
{篠山警視が美月ちゃんの聴取を?}
『念のためお前も立ち会ってくれ。もし篠山警視が立ち会いを拒絶した場合は、お前の立ち会いの下でなければ聴取はさせないと言えばいい』
{そんなこと、あの人に言って大丈夫でしょうか?}
真紀は威勢もいい、度胸もある。だが指揮官の立場にいる恵子に進言することにはさすがに躊躇いがあるようだ。
『心配するな。俺からの命令だと言っておけ。だいたい、美月ちゃんの担当は俺の班だ。彼女の聴取に俺の班の人間が立ち会うのは当然のこと。それに……小山、頼む。美月ちゃんを守ってやってくれ』
{……はい。わかっています。私も篠山警視だけに美月ちゃんの聴取を任せられません}
『頼んだぞ』
真紀に言い含めて通話を終えた彼は、ソファーに寝そべって明るい天井を見つめた。
捜査に私情は挟まない──。警察官の鉄則だ。
(俺はこの12年、刑事としてではなくひとりの人間としてあの子に接してきた)
初めて彼女と出会ったのは12年前の8月。ある事件の捜査で静岡まで出掛けた帰りに嵐に見舞われた。
運悪く車のタイヤがパンクして立ち往生していた矢先、上野はあのペンションに辿り着いた。その時には、まさか宿泊先で殺人事件が起きるとは思いもしなかったが。
そのペンションに彼女はいた。ペンションオーナーの姪、木村美月。結婚前の旧姓は浅丘美月。
優しくて真っ直ぐな瞳をした17歳の少女だった。
殺人事件の犯人の佐藤瞬と美月は恋仲となり、佐藤を失った美月はASD(急性ストレス障害)を患った。心を壊してしまった彼女の笑顔を取り戻したかった。
もう一度、笑って欲しかった。
あの頃の17歳の美月と現在の美月が重なる。上野や彼女の両親、精神科の医師がどれだけ尽力しても、一度壊れた少女の心を治すのは容易ではない。