Deception〜私たちの恋の裏にはそれぞれの思惑が渦巻いている〜
 彼を見上げて少しだけ不思議な気分になった。自分の家に、好きな人がいるのがたまらなく嬉しい。

 想乃は白いクッション性の椅子に座り、蓋を持ち上げた。

「なにがいいですか?」と尋ねながら手指のストレッチをしてウォーミングアップに鍵盤を撫でた。時間はまだ日中なので好きに弾いたとしても近所迷惑にはならない。

「昔。想乃がコンクールで弾いていた曲、今も弾ける?」

 そう尋ねられて、うーん、と一度考える。「楽譜があれば……」。言いながら椅子を引いて立ち上がる。「少し待っていてください」とお願いしてリビングを出た。

 自室へ入りクローゼットを開ける。コンクールのトロフィーと賞状が入った紙袋を開けて、一緒に楽譜が入っていないかどうかを確かめた。

「ない」と呟いたところで眉を寄せた。想乃の瞳が不安定に揺れて宙を漂う。デスクの引き出しを開けたり閉めたりしながら、他の楽譜も一緒に探すけれどなにひとつとして見つからない。

 どうしてないのか、心当たりを見つけて愕然とした。「そっか」と乾いた声がもれる。有るわけがない、と思う。

 想乃は力なく床に腰を落とした。全身から力が抜けていく。

 捨てたんだった……全部。

もう二度と弾かないと決めてピアノを売ったから、楽譜も全て処分したのだ。未練がましく悩まないように。弾きたいと思わないように。ちゃんと前を向けるように。母のために。

「想乃?」
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