Deception〜私たちの恋の裏にはそれぞれの思惑が渦巻いている〜
 その瞳に焦点はなく、まばたきだけが無意識に繰り返されていた。まるで、そこにはいないかのように。

 十ヶ月。何度も呼びかけ、何度も手を握った。けれど、一度たりとも母の視線が合うことはなかった。

 母は小さなトランポリンの上に座らされ、音楽療法士の手に支えられていた。

 背もたれのないその場所に、ぎこちなく腰を下ろしているものの、やはり自力で姿勢を保つことは難しい。

 療法士がそっと母の背を支えながら、ゆっくりとトランポリンを上下に揺らし始めた。

 リズムに合わせて、柔らかな弾みが母の身体をわずかに浮かせ、また静かに沈む。まるで水面に浮かぶ小舟が、穏やかな波にゆっくりと揺られているかのようだった。

 その動きに合わせるように、想乃はピアノの鍵盤に指を落とす。軽やかで規則的なリズムが、病室の空気を満たしていく。

 ノクターン第2番——。母も大好きな曲だ。

「今日はショパンのノクターンですね」

 療法士はトランポリンの端に膝をつきながら、母の肩に優しく手を添えた。

「江里さん、曲に合わせて揺れていますよ。感じますか?」

 もちろん、母からの返事はない。それでも、療法士はゆったりとした動きを崩さず、一定のリズムで上下運動を続ける。

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