〜Midnight Eden〜 episode1.【春雷】
一年時の担任だった陣内とは時折、こうして生物準備室を訪ねて彼が所蔵する本を借りている。
きっかけは半年前。一年生の当時からイジメを受けていた萌子は誰もいない放課後の教室で泣いていた。
教室に書類を取りに来た陣内は泣いている萌子を生物準備室に連れて行った。涙の理由を尋ねるでもなく陳内が出してくれた温かいコーヒーは、心許せる友達のいない高校生活で見つけた、たったひとつの救いだった。
生徒からの陣内の評判は芳《かんば》しくない。暗い、無口、いつも顕微鏡で微生物の観察をしているオタク、そんな評価を下されていた陣内のことを、その時までは萌子も暗くて怖い教師だと思い込んでいた。
実際の陣内は冷たいようで優しい人だ。少なくとも萌子にとっては、荒川第一高校で最も親しい教師は陳内だった。
陣内は何も言わないが、ここに来ればいつも萌子の分のコーヒーを淹れて小説を貸してくれる。
生物準備室で彼と沈黙を共有しながら小説のページをめくる時間が萌子の癒しだった。
窓際の椅子に座った彼女は借りた推理小説を膝に置き、ハードカバーの質感に触れた。あらすじを読みながらこれから始まる壮大な物語の想像を巡らせ、物語の扉を開いた。
数ページ読んで少しばかりの休憩。学校で教師に淹れてもらったコーヒーは特別な味がする。
荒川第一高校の北側に面した道路には桜の木が連なっている。
北校舎三階の生物準備室の窓からは道を挟んだ向こう側の日暮里南《にっぽりみなみ》公園が見えるが、今は公園の入り口付近に赤い傘を差した人影が立っていた。
「先生は桜の木の下には死体が埋まっていると思いますか? 前に貸してくれた梶井基次郎《かじい もとじろう》の本にそんな短編がありましたよね」
『檸檬《れもん》だろ』
「そうです。その中にありましたよね。桜の木の下には死体が埋まっているって話」
梶井基次郎の短編小説、[檸檬]には“桜の木の下には死体が埋まっている”という印象的な書き出しで始まる物語が収録されている。
桜は萌子の思い出の花だ。推理小説に挟まる桜のしおりは、母が桜の花びらを押し花にして作ってくれた物。
母が死んだ日は病院の側の桜が満開だった。綺麗な思い出も悲しい思い出も桜を見ると甦る。
『美しく見えるものほど、他から養分を吸い取っている。植物も人もね』
口数の少ない陣内は聞いたことには答えてくれる。生物教師らしい答えだと思えた。
「私は死んだ後は桜の下に埋めて欲しいです。こんな私でも綺麗な桜の養分になれるなら、そうして欲しいな」
桜の木の下には何がある?
綺麗なもの? 汚いもの?
真実は誰も知らない。誰も語らない。
役目を終えた葉桜の側で赤い傘が雨に濡れている。まったく動かない赤い傘を、萌子は生物準備室の窓から見つめていた。
きっかけは半年前。一年生の当時からイジメを受けていた萌子は誰もいない放課後の教室で泣いていた。
教室に書類を取りに来た陣内は泣いている萌子を生物準備室に連れて行った。涙の理由を尋ねるでもなく陳内が出してくれた温かいコーヒーは、心許せる友達のいない高校生活で見つけた、たったひとつの救いだった。
生徒からの陣内の評判は芳《かんば》しくない。暗い、無口、いつも顕微鏡で微生物の観察をしているオタク、そんな評価を下されていた陣内のことを、その時までは萌子も暗くて怖い教師だと思い込んでいた。
実際の陣内は冷たいようで優しい人だ。少なくとも萌子にとっては、荒川第一高校で最も親しい教師は陳内だった。
陣内は何も言わないが、ここに来ればいつも萌子の分のコーヒーを淹れて小説を貸してくれる。
生物準備室で彼と沈黙を共有しながら小説のページをめくる時間が萌子の癒しだった。
窓際の椅子に座った彼女は借りた推理小説を膝に置き、ハードカバーの質感に触れた。あらすじを読みながらこれから始まる壮大な物語の想像を巡らせ、物語の扉を開いた。
数ページ読んで少しばかりの休憩。学校で教師に淹れてもらったコーヒーは特別な味がする。
荒川第一高校の北側に面した道路には桜の木が連なっている。
北校舎三階の生物準備室の窓からは道を挟んだ向こう側の日暮里南《にっぽりみなみ》公園が見えるが、今は公園の入り口付近に赤い傘を差した人影が立っていた。
「先生は桜の木の下には死体が埋まっていると思いますか? 前に貸してくれた梶井基次郎《かじい もとじろう》の本にそんな短編がありましたよね」
『檸檬《れもん》だろ』
「そうです。その中にありましたよね。桜の木の下には死体が埋まっているって話」
梶井基次郎の短編小説、[檸檬]には“桜の木の下には死体が埋まっている”という印象的な書き出しで始まる物語が収録されている。
桜は萌子の思い出の花だ。推理小説に挟まる桜のしおりは、母が桜の花びらを押し花にして作ってくれた物。
母が死んだ日は病院の側の桜が満開だった。綺麗な思い出も悲しい思い出も桜を見ると甦る。
『美しく見えるものほど、他から養分を吸い取っている。植物も人もね』
口数の少ない陣内は聞いたことには答えてくれる。生物教師らしい答えだと思えた。
「私は死んだ後は桜の下に埋めて欲しいです。こんな私でも綺麗な桜の養分になれるなら、そうして欲しいな」
桜の木の下には何がある?
綺麗なもの? 汚いもの?
真実は誰も知らない。誰も語らない。
役目を終えた葉桜の側で赤い傘が雨に濡れている。まったく動かない赤い傘を、萌子は生物準備室の窓から見つめていた。