〜Midnight Eden〜 episode1.【春雷】
 それだけのこと、と言ってしまえばこの世に犯罪は起きない。街で肩がぶつかっただけで暴行事件が起きたり、隣人の煩《うるさ》い生活音に堪えきれなくて殺人事件に発展するケースもある。

それだけのことで、人は人を憎める。
それだけのことで、人は人を殺せる。

「あなたは絵茉の前にひとり殺している。それは何故? 絵茉だけを殺せばいいじゃない」
『絵茉だけでは面白みがないじゃないですか。最初の殺人が上手くいく保証はない。だから絵茉を殺す前に、予行演習がしたかったんです』

 美夜は冷静さを保っているが、九条は不快感を露《あらわ》にした。九条の歪められた顔には陳内の思考が理解できないと書いてある。

「初瀬明日美さんの顧客リストにあなたの名前があった。あなたは明日美さんのお客だったのね」
『ちょうど知った顔が側を通ったから、練習台はあの子にしました。絵茉と違って彼女はいい子だったので、殺すのは少し可哀想でしたね。だけどひとり殺したら愚民が勝手に俺を英雄扱いしてくれた。ネットを見ましたか? 切り裂きジャックの登場に国民は歓喜したんだ』

 初瀬明日美の事件の直後、ネットのニュースやツイッター、掲示板はラブホテル街でデリヘル嬢が殺されたセンセーショナルな事件の話題で持ちきりだった。

『絵茉の腹を切り裂いて気が晴れるかと思ったらそうでもなかったんですよ。もっと殺したくなった。殺せば殺すほど、民衆は俺を21世紀の切り裂きジャックと崇める。殺した翌日にネットの盛り上がりを見るのは愉快でした』

陳内の殺人衝動に肥料をやり、水を注ぎ、21世紀の切り裂きジャックの名を得た怪物を産み出したのは、連続殺人鬼の出現を喜んだインターネットの民衆だった。

「どうして今回はわざわざ警察に見つかるようなやり方をしたの?」
『あなたがここに来るか試したんです』

 殺人鬼の瞳に宿った鋭い光が美夜の心の深層を探る。初めて動揺を見せた彼女は震える唇を動かした。

「……私をここに呼ぶために?」
『会えるならもう一度会ってみたかったんです。会って確認したかった』
「何を……?」

揺らめく影が一歩、二歩と美夜に近付く。立ち上がった陣内の腕を九条が拘束しても陣内は歩みを止めない。
彼は美夜しか見えていなかった。

『あなたは刑事らしくない。どうしてそちら側にいるんですか?』

 深淵の怪物がじっとこちらを見つめている。
そちら側は愉《たの》しいかい?
そちら側は正しいかい?
怪物の問いかけに彼女はいつも無言でやり過ごした。

答えられない美夜を置き去りにした薄ら笑いの背中が遠ざかる。

 覗かれた深淵。流れた冷や汗。
心の音がやけに大きく聴こえたのは、たぶん気のせい。
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