🍶 夢織旅 🍶 ~三代続く小さな酒屋の愛と絆と感謝の物語~
4
翔が帰ったあと、書斎に閉じこもった。
かつて山ほどの経営書で埋め尽くされた書斎だ。
ここで悩み、ここで耐え、ここで眠れない夜を過ごした。
その度に何百冊もの経営書が励ましてくれた。
そのお陰で何度も立ち直り、前進することができた。
ここまでやってこられたのは優れた経営書が支えてくれたからだった。
感謝の思いで胸がいっぱいになった。
一冊の本を手に取り、色が褪せかけた表紙に手を這わせた。
『日・米経営者の発想』
松下幸之助とバンク・オブ・アメリカの元会長、ルイス・ランドボルグの対談をまとめた本だった。
この本を何度読み返したことだろう。
読み返すたびに新しい発見があり、その度に勇気を貰ったような気がする。
裏表紙をめくると、発行日が記されていた。
1980年1月1日。
第一刷発行と書かれている。
今から40年前のことだ。
しかし、ただの40年前ではない。
その日は父が亡くなり、翔が命を授けられた日だった。
そんな時にこの本と出合ったのだ。
書店で手に取った瞬間、運命を感じた。
父に代わってこの本が導いてくれると直感した。
だから迷わず購入し、それから何度も読み返した。
『企業は永遠か?』
『経営者の姿勢』
『創立者から後継者へ』
『企業の社会的責任』
『80年代ビジネス革命の優先順位』
『金銭感覚』
『利潤哲学』
『取締役会は、だれのものか?』
『説得・接近・参加』
『追うもの、追われるもの』
どの項目にも至極の名言が散りばめられており、それを一つ一つ丁寧に読んだ。
何度も読み返した。
そして血肉にしていった。
正に、日米の名経営者が導いてくれたのだった。
ページをめくると、著者二人がにこやかな微笑みを湛えていた。
まるで自分を見つめるように。
醸は居ずまいを正して、
「ありがとうございました」と頭を下げて、本を閉じた。
しばらく表紙を見つめていた醸は、静かに目を閉じた。
振り返れば自分の人生は、夢を求め、夢を織り続ける旅だった。
しかし、その旅も終わる。
祖父・一徹と父・崇の想いを引き継いで40年間織り続けた夢の旅がもうすぐ終わる。
醸は目を開けて、手にしていた本の表紙をもう一度撫でた。
そして一緒に40年間旅をしてくれたその本をそっと段ボール箱の中に入れた。
机上の写真盾を手に取った。
醸と幸恵と咲と音が写っていた。
それぞれがトロフィーや盾を持っていた。
色々なコンクールで受賞して誇らしげな表情を浮かべているその写真を見ていると、若い頃皆で誓った「世界で戦って勝つ!」という言葉が蘇ってきた。
頑張ったよな、俺たち……、
彼らに向かって話しかけると、笑顔で写っている彼らが頷いたような気がした。
もう一つの写真盾に手を伸ばした。
祖父と父と幼い自分が写っていた。
母が撮ってくれた写真だった。
父は祖父の肩に手を置いていた。
醸は祖父の膝に座っていた。
二人の遺影を見ていると、急に飲みたくなった。
「一緒に飲もうか」
醸は立ち上がって、書斎を出て店の中に入り、棚から酒を一本取り出した。
祖父と父の思い出が詰まった酒だった。
台所でぐい吞みを取り出して、4合瓶と共にトレイに乗せて書斎に運んだ。
「先ずはオヤジから」
父の前にぐい吞みを置いて、なみなみと注いだ。
「引継ぎの旅がここで終わったんだよね」
蔵元が叩いたなめろうをおいしそうに食べている父の表情を想像すると、突然、グッときた。
「オヤジ……」
亡くなった日のことを思い出した。
生まれ変わるように翔が生まれた日だ。
「翔も立派な大人になったよ」
すると、「覚悟はできています」と言った翔の顔が浮かんできた。
「翔にバトンを渡すことにしたよ。それにね」
思わず頬が緩んだ。
「孫ができたんだよ」
夢という名前を告げた。
「翔が考えた名前だよ。実は同じ名前を考えていたんだけどね。でも、これは翔には内緒だからね。しゃべっちゃダメだよ」
口止めするように父の口元に指を置き、もう一つのぐい吞みを手元に置いて酒を注いだ。
そして、父の前に置いたぐい吞みに軽く当てて、「翔と夢を見守ってやってください」とグイっと飲み干した。
それから、祖父の前にぐい吞みを置いた。
「おじいちゃんが名前を付けた酒だよ」
房総大志酒造の芳醇大漁をなみなみと注いだが、その時「あっ」と大きな声を出してしまった。
勢い余ってぐい吞みから酒をこぼしてしまったからだ。
20歳の時に怒られてから50年も経っているのに、あの時の怖さは今でもありありと思い出すことができた。
しかし、今日は例え零しても怒られないようにしっかり対策を施していた。
ぐい吞みの下に皿を置いていたのだ。
もし零しても一滴残さず飲めるようにと準備していたのだ。
「同じ失敗はしないからね、おじいちゃん」
そして、翔が4代目の社長になったことを報告した。
「5代目も生まれたから華村酒店は安泰だよ」
まだ顔も見ていないのに、孫を抱いた自分の姿を想像した。
すると、祖父に可愛がってもらった日々が蘇ってきた。
「乾杯しようか」
自分のぐい吞みに酒を注いでから、祖父のそれに軽く当ててグイっと飲むと、帰国した時に床に臥せていた祖父の顔が蘇ってきた。
そして、綿棒で酒を酌み交わした時のことが蘇ってきた。
「もっともっと一緒に飲みたかったな……」
胸が詰まったが、首を振って切ない気持ちを追い払った。
「今日はめでたい日だからね」
無理矢理笑みを浮かべた。
それから祖父の前のぐい吞みをこぼさないように慎重に持って、すするように飲んだ。
「旨いね」
祖父の口真似をした。
上手にできたかどうかわからなかったが、あの世で喜ぶ顔が見えたような気がした。
「一滴も無駄にしないからね」
ぐい吞みの下に置いた皿を持ってすべてを飲み干すと、ふ~、と自然に息が漏れた。
気持ち良く酒が回っていた。
「もう少し付き合ってよ」
三つのぐい吞みにもう一度酒を注いで、それを次々に飲み干した。
それを何度も繰り返し、40年間の夢織旅を振り返りながら、四合瓶が空になるまで飲み続けた。
ぐい吞みは空になった。
瓶の中にも酒は残っていなかった。
しかし、儀式はまだ終わっていない。
左手に瓶を持ってゆっくりと逆さにして、受け皿にした右の掌に最後の一滴が落ちてくるのを待った。
すぐには出てこなかったが、逆さにしたまま待ち続けると、瓶口に小さな膨らみができ、それが丸くなった。
そして、ゆっくりと滴が落ちてきた。
それをすするように飲むと、祖父の声が聞こえてきたような気がした。
酒の一滴は血の一滴。
そうだね、
醸は頷き、同じ言葉を呟いた。
さてと、
立ち上がろうとしたがちょっとふらついた。
酔いが回っているようだった。
無理するなよ、
父の声が聞こえたような気がした。
そうだね、
もうしばらく座っていることにした。
いい気持ちだよ、
目を瞑るとすぐに眠れそうで、目がトロンとなってきた。
写真がボーっとしか見えなくなったが、代わりに耳に声が届いたような気がした。
お疲れさん、
祖父の声に違いなかった。
ありがとう、
呟くと、しょっぱいものが口に流れてきた。
それを拭うと、父の声が聞こえてきた。
それは、とても優しい声だった。
よくやったぞ。
完
翔が帰ったあと、書斎に閉じこもった。
かつて山ほどの経営書で埋め尽くされた書斎だ。
ここで悩み、ここで耐え、ここで眠れない夜を過ごした。
その度に何百冊もの経営書が励ましてくれた。
そのお陰で何度も立ち直り、前進することができた。
ここまでやってこられたのは優れた経営書が支えてくれたからだった。
感謝の思いで胸がいっぱいになった。
一冊の本を手に取り、色が褪せかけた表紙に手を這わせた。
『日・米経営者の発想』
松下幸之助とバンク・オブ・アメリカの元会長、ルイス・ランドボルグの対談をまとめた本だった。
この本を何度読み返したことだろう。
読み返すたびに新しい発見があり、その度に勇気を貰ったような気がする。
裏表紙をめくると、発行日が記されていた。
1980年1月1日。
第一刷発行と書かれている。
今から40年前のことだ。
しかし、ただの40年前ではない。
その日は父が亡くなり、翔が命を授けられた日だった。
そんな時にこの本と出合ったのだ。
書店で手に取った瞬間、運命を感じた。
父に代わってこの本が導いてくれると直感した。
だから迷わず購入し、それから何度も読み返した。
『企業は永遠か?』
『経営者の姿勢』
『創立者から後継者へ』
『企業の社会的責任』
『80年代ビジネス革命の優先順位』
『金銭感覚』
『利潤哲学』
『取締役会は、だれのものか?』
『説得・接近・参加』
『追うもの、追われるもの』
どの項目にも至極の名言が散りばめられており、それを一つ一つ丁寧に読んだ。
何度も読み返した。
そして血肉にしていった。
正に、日米の名経営者が導いてくれたのだった。
ページをめくると、著者二人がにこやかな微笑みを湛えていた。
まるで自分を見つめるように。
醸は居ずまいを正して、
「ありがとうございました」と頭を下げて、本を閉じた。
しばらく表紙を見つめていた醸は、静かに目を閉じた。
振り返れば自分の人生は、夢を求め、夢を織り続ける旅だった。
しかし、その旅も終わる。
祖父・一徹と父・崇の想いを引き継いで40年間織り続けた夢の旅がもうすぐ終わる。
醸は目を開けて、手にしていた本の表紙をもう一度撫でた。
そして一緒に40年間旅をしてくれたその本をそっと段ボール箱の中に入れた。
机上の写真盾を手に取った。
醸と幸恵と咲と音が写っていた。
それぞれがトロフィーや盾を持っていた。
色々なコンクールで受賞して誇らしげな表情を浮かべているその写真を見ていると、若い頃皆で誓った「世界で戦って勝つ!」という言葉が蘇ってきた。
頑張ったよな、俺たち……、
彼らに向かって話しかけると、笑顔で写っている彼らが頷いたような気がした。
もう一つの写真盾に手を伸ばした。
祖父と父と幼い自分が写っていた。
母が撮ってくれた写真だった。
父は祖父の肩に手を置いていた。
醸は祖父の膝に座っていた。
二人の遺影を見ていると、急に飲みたくなった。
「一緒に飲もうか」
醸は立ち上がって、書斎を出て店の中に入り、棚から酒を一本取り出した。
祖父と父の思い出が詰まった酒だった。
台所でぐい吞みを取り出して、4合瓶と共にトレイに乗せて書斎に運んだ。
「先ずはオヤジから」
父の前にぐい吞みを置いて、なみなみと注いだ。
「引継ぎの旅がここで終わったんだよね」
蔵元が叩いたなめろうをおいしそうに食べている父の表情を想像すると、突然、グッときた。
「オヤジ……」
亡くなった日のことを思い出した。
生まれ変わるように翔が生まれた日だ。
「翔も立派な大人になったよ」
すると、「覚悟はできています」と言った翔の顔が浮かんできた。
「翔にバトンを渡すことにしたよ。それにね」
思わず頬が緩んだ。
「孫ができたんだよ」
夢という名前を告げた。
「翔が考えた名前だよ。実は同じ名前を考えていたんだけどね。でも、これは翔には内緒だからね。しゃべっちゃダメだよ」
口止めするように父の口元に指を置き、もう一つのぐい吞みを手元に置いて酒を注いだ。
そして、父の前に置いたぐい吞みに軽く当てて、「翔と夢を見守ってやってください」とグイっと飲み干した。
それから、祖父の前にぐい吞みを置いた。
「おじいちゃんが名前を付けた酒だよ」
房総大志酒造の芳醇大漁をなみなみと注いだが、その時「あっ」と大きな声を出してしまった。
勢い余ってぐい吞みから酒をこぼしてしまったからだ。
20歳の時に怒られてから50年も経っているのに、あの時の怖さは今でもありありと思い出すことができた。
しかし、今日は例え零しても怒られないようにしっかり対策を施していた。
ぐい吞みの下に皿を置いていたのだ。
もし零しても一滴残さず飲めるようにと準備していたのだ。
「同じ失敗はしないからね、おじいちゃん」
そして、翔が4代目の社長になったことを報告した。
「5代目も生まれたから華村酒店は安泰だよ」
まだ顔も見ていないのに、孫を抱いた自分の姿を想像した。
すると、祖父に可愛がってもらった日々が蘇ってきた。
「乾杯しようか」
自分のぐい吞みに酒を注いでから、祖父のそれに軽く当ててグイっと飲むと、帰国した時に床に臥せていた祖父の顔が蘇ってきた。
そして、綿棒で酒を酌み交わした時のことが蘇ってきた。
「もっともっと一緒に飲みたかったな……」
胸が詰まったが、首を振って切ない気持ちを追い払った。
「今日はめでたい日だからね」
無理矢理笑みを浮かべた。
それから祖父の前のぐい吞みをこぼさないように慎重に持って、すするように飲んだ。
「旨いね」
祖父の口真似をした。
上手にできたかどうかわからなかったが、あの世で喜ぶ顔が見えたような気がした。
「一滴も無駄にしないからね」
ぐい吞みの下に置いた皿を持ってすべてを飲み干すと、ふ~、と自然に息が漏れた。
気持ち良く酒が回っていた。
「もう少し付き合ってよ」
三つのぐい吞みにもう一度酒を注いで、それを次々に飲み干した。
それを何度も繰り返し、40年間の夢織旅を振り返りながら、四合瓶が空になるまで飲み続けた。
ぐい吞みは空になった。
瓶の中にも酒は残っていなかった。
しかし、儀式はまだ終わっていない。
左手に瓶を持ってゆっくりと逆さにして、受け皿にした右の掌に最後の一滴が落ちてくるのを待った。
すぐには出てこなかったが、逆さにしたまま待ち続けると、瓶口に小さな膨らみができ、それが丸くなった。
そして、ゆっくりと滴が落ちてきた。
それをすするように飲むと、祖父の声が聞こえてきたような気がした。
酒の一滴は血の一滴。
そうだね、
醸は頷き、同じ言葉を呟いた。
さてと、
立ち上がろうとしたがちょっとふらついた。
酔いが回っているようだった。
無理するなよ、
父の声が聞こえたような気がした。
そうだね、
もうしばらく座っていることにした。
いい気持ちだよ、
目を瞑るとすぐに眠れそうで、目がトロンとなってきた。
写真がボーっとしか見えなくなったが、代わりに耳に声が届いたような気がした。
お疲れさん、
祖父の声に違いなかった。
ありがとう、
呟くと、しょっぱいものが口に流れてきた。
それを拭うと、父の声が聞こえてきた。
それは、とても優しい声だった。
よくやったぞ。
完