お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
◇◆◇
久々に日付が変わる前に帰宅できた守頭瑛士は、玄関先で正座し三つ指をついて頭を下げる妻を見て唖然としていた。
(人妻を、終了?)
一体何のことなのかさっぱりわからない。
ポケットにしまおうとしていた車のキーを取り落としかけたことで気を取り戻した瑛士は、二度目をまばたかせ妻である沙織を見る。
いつも通りだ。
前髪で一直線に切りそろえ、丁寧に梳られた艶やかな黒髪。
白磁のように白い肌に、やや大きめの目は和人形のように艶めいている。
やや控えめな唇はけれどよく熟した桜桃のようで、とても美味しそうだ。
あれに口づけたらどんな味がするのだろうかと、意識がそれかけるのを元に戻し見ると、わずかに違う点がある。
早く帰ってきた、といっても九時を回っている。
普段ならこの時間は沙織は部屋にひっこんでいるか、見かけても浴衣のような寝間着を着ていることがほとんどだ。
なのに今日は、朝見かけた時と同じ胡桃染色の結城紬を着ている上、俗に言う姫カットと呼ばれる、短めの横髪を残して、他は全部後ろでひとくくりにしてある。
それに玄関に置かれた、見慣れない大きなキャリーバッグ。
旅行にでもでかけるつもりなのか? こんな時間に? それとも明日から出かけるから人妻――もとい、家を空けるといいたいのか。
箱入りも箱入り、金銀螺鈿の箱に入れられて育ったといっても過言でない沙織は、少々、ものいいが世間とずれている。
だから、旅行に出ますといいたいのを、あえて迂遠につたえようとしているのだろうか。
頭の中に疑問符で埋め尽くされる中、それでも理解しようと相手を見れば。
「それでは、ごきげんよう。元旦那様。離婚届はテーブルの上にございますので」
単刀直入にそう言われ、一瞬思考が停止した。
完全に頭が真っ白になったのは、初めてかもしれない。
学生時代の投資で一億を超える損失をだしかけた時や、部下が資金を持ち逃げした時だって、いつも頭脳はクリアだったのに。
沙織が離婚? 誰とだ? と現実味がまったくない頭で守頭が困惑していると、相手はまったく構わずに晩ごはんは作り置きがあるとか、洗濯物は終わっているとかひどく日常的な連絡を口にする。
ますますわからない。
離婚したいと思うほどこの結婚が嫌なら、全部投げ出して行ってもおかしくないのに。いや、そうされても困るというか怖いのだが。
ともあれ、自分は絶対に離婚なんてしない。したくない。
その一心で口をひらいて、「なんで、君と離婚しなければならない」と相手に問えば、彼女はまったく悪びれない、無邪気この上ない表情で首を傾げて。
「なんで、離婚してはいけないのでしょうか?」
などと聞く。
まるで外に食事に行くとでも言う風な軽いノリに、ついに頭痛がしてきてしまう。
「君は、この結婚をなんだと思っているんだ」
そう。守頭と沙織の結婚は、一般的でない流れで決まったものだ。行き当たりばったりに離婚と言われても困る。
(そもそも、まだ新婚らしいことは、なにひとつできてないのに)
予想より早く沙織と結婚したため、守頭の身の回り――女性関係ではなく仕事だ――がまるで片付いてなかった。そのため、家に帰る時間が遅かったのは認める。
会社に泊まり込むとか、近くのホテルに部屋を取るほうがずっと楽だし手間はない。それでも、わざわざ家まで帰ってきたのは沙織との生活を考えているという意思表示のつもりでもあった。まったく伝わってないのはわかっているが。
いきなり距離をつめて、嫌われてはもとも子もない。まずは守頭のテリトリーで生活してもらい、守頭瑛士という存在に慣れてもらい、それから恋愛をと考えていたが、いささか慎重すぎたようだ。
そんなことを考えつつ、ともかく離婚だけは回避させなければと考えていると、沙織は目をまばたかせ、それからニッコリ笑ってこの結婚をどう思っているのかを答えた。
――それはもちろん、借金のカタでございますでしょう? と。
そもそもの話。
守頭の親は外交官だった。そのためあちこちの国に駐在しては移動してを繰り返していた。
母親は児童文学の研究家だったが、子どもが好きというよりは自分の童心を愛しており、児童の情操教育についてその筋では有名だったようだが、自身の子どもである守頭の情操については、まったく気を払わない人であった。
当然、家事も育児も気まぐれにしか手を出さず、日がな一日中自室にこもっては論文を書くための資料を読みふけり、執筆するばかり。
結果、守頭は母親というより家政婦に育てられたようなもので、その家政婦も神経質な母親が仕事に行き詰まるたびに解雇し、新たに雇いを繰り返していたので一人の人間と深く長く関わることがなかった。
親が話すので日本語については不自由なく、外国語についても日常会話であれば英語とフランス語を、挨拶してホテルに泊まる程度のものまで含めれば七カ国近い言葉を身に供えたが、どの国でも心から親友と言える存在はおらず、また恋愛についてもそれを自覚する前に転勤することが多かったことや、両親が自分のステイタスや成果を重視し、度々に衝突するのを見てきたため、どこか覚めた気持ちを捨てきれなかった。
アメリカの大学を卒業する頃になると、両親の不仲は決定的となっており、互いに不干渉をつらぬくけれど世間体のため離婚はしないという状況が続き、二十五歳となる頃には、よせばいいのに、大使という役職にどうしても着きたい欲を捨てきれなかった父親が、危険地域への赴任を受諾し、結果、その先で事故に合い夫婦ともに異国の地で亡くなった。
その頃には守頭も両親とめったに関わることはなく、年に一度電話するかどうかで、あちらから電話があるときは自分にとって都合のいい縁談を持ち込もうとするか、授賞式などで外見と才能にすぐれた息子を見せびらかす為と決まっていた。
だから二人が亡くなったと聞いても、さほど悲しいとはおもわなかった。
自分は、感情というものがないのかもしれない。そう考えるほど、歳を経るごとに心が覚めて行き、最後に笑ったのはいつだったか思い出せないほど。
唯一、熱意を賭けられるものはといえば仕事だけで、リスクとメリットの間際で自己を賭けるような投資をする時だけ、生きている実感を得られたし、同時に強運と感情に流されない判断により危ない相場も楽々とくぐり抜け、若くして周囲もうらやむ資産家になっていた。
久々に日付が変わる前に帰宅できた守頭瑛士は、玄関先で正座し三つ指をついて頭を下げる妻を見て唖然としていた。
(人妻を、終了?)
一体何のことなのかさっぱりわからない。
ポケットにしまおうとしていた車のキーを取り落としかけたことで気を取り戻した瑛士は、二度目をまばたかせ妻である沙織を見る。
いつも通りだ。
前髪で一直線に切りそろえ、丁寧に梳られた艶やかな黒髪。
白磁のように白い肌に、やや大きめの目は和人形のように艶めいている。
やや控えめな唇はけれどよく熟した桜桃のようで、とても美味しそうだ。
あれに口づけたらどんな味がするのだろうかと、意識がそれかけるのを元に戻し見ると、わずかに違う点がある。
早く帰ってきた、といっても九時を回っている。
普段ならこの時間は沙織は部屋にひっこんでいるか、見かけても浴衣のような寝間着を着ていることがほとんどだ。
なのに今日は、朝見かけた時と同じ胡桃染色の結城紬を着ている上、俗に言う姫カットと呼ばれる、短めの横髪を残して、他は全部後ろでひとくくりにしてある。
それに玄関に置かれた、見慣れない大きなキャリーバッグ。
旅行にでもでかけるつもりなのか? こんな時間に? それとも明日から出かけるから人妻――もとい、家を空けるといいたいのか。
箱入りも箱入り、金銀螺鈿の箱に入れられて育ったといっても過言でない沙織は、少々、ものいいが世間とずれている。
だから、旅行に出ますといいたいのを、あえて迂遠につたえようとしているのだろうか。
頭の中に疑問符で埋め尽くされる中、それでも理解しようと相手を見れば。
「それでは、ごきげんよう。元旦那様。離婚届はテーブルの上にございますので」
単刀直入にそう言われ、一瞬思考が停止した。
完全に頭が真っ白になったのは、初めてかもしれない。
学生時代の投資で一億を超える損失をだしかけた時や、部下が資金を持ち逃げした時だって、いつも頭脳はクリアだったのに。
沙織が離婚? 誰とだ? と現実味がまったくない頭で守頭が困惑していると、相手はまったく構わずに晩ごはんは作り置きがあるとか、洗濯物は終わっているとかひどく日常的な連絡を口にする。
ますますわからない。
離婚したいと思うほどこの結婚が嫌なら、全部投げ出して行ってもおかしくないのに。いや、そうされても困るというか怖いのだが。
ともあれ、自分は絶対に離婚なんてしない。したくない。
その一心で口をひらいて、「なんで、君と離婚しなければならない」と相手に問えば、彼女はまったく悪びれない、無邪気この上ない表情で首を傾げて。
「なんで、離婚してはいけないのでしょうか?」
などと聞く。
まるで外に食事に行くとでも言う風な軽いノリに、ついに頭痛がしてきてしまう。
「君は、この結婚をなんだと思っているんだ」
そう。守頭と沙織の結婚は、一般的でない流れで決まったものだ。行き当たりばったりに離婚と言われても困る。
(そもそも、まだ新婚らしいことは、なにひとつできてないのに)
予想より早く沙織と結婚したため、守頭の身の回り――女性関係ではなく仕事だ――がまるで片付いてなかった。そのため、家に帰る時間が遅かったのは認める。
会社に泊まり込むとか、近くのホテルに部屋を取るほうがずっと楽だし手間はない。それでも、わざわざ家まで帰ってきたのは沙織との生活を考えているという意思表示のつもりでもあった。まったく伝わってないのはわかっているが。
いきなり距離をつめて、嫌われてはもとも子もない。まずは守頭のテリトリーで生活してもらい、守頭瑛士という存在に慣れてもらい、それから恋愛をと考えていたが、いささか慎重すぎたようだ。
そんなことを考えつつ、ともかく離婚だけは回避させなければと考えていると、沙織は目をまばたかせ、それからニッコリ笑ってこの結婚をどう思っているのかを答えた。
――それはもちろん、借金のカタでございますでしょう? と。
そもそもの話。
守頭の親は外交官だった。そのためあちこちの国に駐在しては移動してを繰り返していた。
母親は児童文学の研究家だったが、子どもが好きというよりは自分の童心を愛しており、児童の情操教育についてその筋では有名だったようだが、自身の子どもである守頭の情操については、まったく気を払わない人であった。
当然、家事も育児も気まぐれにしか手を出さず、日がな一日中自室にこもっては論文を書くための資料を読みふけり、執筆するばかり。
結果、守頭は母親というより家政婦に育てられたようなもので、その家政婦も神経質な母親が仕事に行き詰まるたびに解雇し、新たに雇いを繰り返していたので一人の人間と深く長く関わることがなかった。
親が話すので日本語については不自由なく、外国語についても日常会話であれば英語とフランス語を、挨拶してホテルに泊まる程度のものまで含めれば七カ国近い言葉を身に供えたが、どの国でも心から親友と言える存在はおらず、また恋愛についてもそれを自覚する前に転勤することが多かったことや、両親が自分のステイタスや成果を重視し、度々に衝突するのを見てきたため、どこか覚めた気持ちを捨てきれなかった。
アメリカの大学を卒業する頃になると、両親の不仲は決定的となっており、互いに不干渉をつらぬくけれど世間体のため離婚はしないという状況が続き、二十五歳となる頃には、よせばいいのに、大使という役職にどうしても着きたい欲を捨てきれなかった父親が、危険地域への赴任を受諾し、結果、その先で事故に合い夫婦ともに異国の地で亡くなった。
その頃には守頭も両親とめったに関わることはなく、年に一度電話するかどうかで、あちらから電話があるときは自分にとって都合のいい縁談を持ち込もうとするか、授賞式などで外見と才能にすぐれた息子を見せびらかす為と決まっていた。
だから二人が亡くなったと聞いても、さほど悲しいとはおもわなかった。
自分は、感情というものがないのかもしれない。そう考えるほど、歳を経るごとに心が覚めて行き、最後に笑ったのはいつだったか思い出せないほど。
唯一、熱意を賭けられるものはといえば仕事だけで、リスクとメリットの間際で自己を賭けるような投資をする時だけ、生きている実感を得られたし、同時に強運と感情に流されない判断により危ない相場も楽々とくぐり抜け、若くして周囲もうらやむ資産家になっていた。