お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
 そこからの流れは光速にも等しかった。

 突然の婚約に社員たちも知己も驚いた。とくに、元秘書であり現秘書室長である三見頼子はなんとも言いがたい表情をしていた。

 が、それもそうだろうと思う。

 いままでどんな美女や令嬢を前にしても、表情一つ動かさなかった守頭が、衝動的ともいえる勢いで、ほとんど初対面の、しかも十才も年下の小娘を妻に迎えると決めた上、ほとんどメリットのない結婚だったからだ。

 すべてに理性的で計算ずくと評されていた守頭らしくない。

 一応体外的には、御所頭家の婿となることで上流社交界へ出入りし、そこで顧客を開拓するという説明をしていたが、そうではないことは守頭が一番わかっていた。

 慎ましやかな式を挙げ、沙織を東京の家に呼び寄せた。

 が、和やかな新婚生活はまるで遠い。
 というのもくだんの詐欺事件の犯人は杳として判明していなかったし、居るはずの内部犯もわからない。
 しかも突然結婚すると決めたため、業務の調整がまるでできておらず、仕事が山のように溜まっている。クライアントにも説明すべきで海外に足を運ぶことも増えた上、折が悪く、守頭の会社が急成長による人員補充を行ったばかりで、その教育や人事配置など頭を悩ませる問題も多かった。

 結論として、披露宴は後回し、しばらくは仕事に忙殺されると彼女の父親が同席の上で説明した。

 実際、結婚前に過ごせたのはたった三度、そのいずれもいたって紳士的な食事や観劇で終わってしまった。
 沙織の貞操を奪おうとした男と同列に思われるのは我慢ならなかったから。

 当然、初夜もしばらくはお預けのつもりでいたが、相手は結婚したからには義務と割り切っていたのか、白い長襦袢に似た寝間着姿で三つ指を突かれ目眩がしたのを覚えている。

 恋も知らない乙女を義務だけで抱くほど残酷なことはないだろう。

 だから、今は考えてないと伝えて客室で寝た。抱きたい気持ちは多分にあったが、自分の欲をおしつけて、あるがままの沙織を崩したくはなかった。
 少なくとも、彼女のなにが自分をそんなに惹きつけたのかを知るまでは。彼女が彼女自身の意志で守頭を求めるようになるまでは。

 結婚したのだ。時間はある。今は多忙だが、それも年内だけだ。

 年が明けたら旅行に行こう。温泉などいいかもしれない。海外暮らしが長い守頭は日本の温泉というものを知らずに来たし、沙織にいたっては旅行らしい旅行はしたことがなく、京都から出たのはこの結婚で守頭の住む東京に来た時が初めてだと口にしていたほどだ。
 打ち解けるにはいいかもしれない。金沢の雪深い旅館でたわいない話をして過ごすのは。

 そんなことを思っていたのに、帰宅した守頭をぶん殴る勢いで言い放たれた台詞はといえば。

 ――本日をもって、人妻を終了させていただきます。だ。

 なにを言われているのかまったくわからなかった。理解の範疇を超えていた。
 それが離婚を示すと知った途端、内心で焦りまくっていた。

 皮肉なことに、表情を読ませず相手の腹を探り合う投資交渉で培った無表情は健在で、声のトーンも変わらないが、確かに守頭は焦りまくっていた。

 ともかく引き留め、食事をしつつ話を聞く。
 家政婦が作っただろう夕食は、関西風の薄味で、慣れるまで少しかかったが、沙織が慣れ親しんだ味だと思えば、また新鮮かつ美味に思えた。
 よほどまめな家政婦が通っているのか、家は塵一つなく完璧に磨かれていて、何時に帰っても家庭的な惣菜――守頭が幼い頃に望んでも食べることができなかった家庭の味が――きちんと整理され、冷蔵庫に収められている。

 報酬をあげるべきか、いや、来年末には子どもがいる可能性も考え人員を増やすべきか。そんなことすら考えていたのに。離婚と来た。

 好きな男ができたかと聞けばそうではなく、意味がないからの一点張り。

 そんなに自分との結婚生活が嫌なのかと顔をしかめると、夫婦らしいことを一切していないのが不満な模様。

(していいなら、いくらでもするが)

 内心で吠える気持ちを押し隠し、相手より年上だから、大人だからと極めて冷静に話を聞いていた処、唐突に頭を抱えられ、そのままテーブルに突っ伏されて肝が冷えた。

 あわてて名前を連呼し肩を揺さぶれば、これまた意外にも熟睡していて。
 呆れるやら、可笑しいやら、そんなに緊張していたのかと気遣わしいやら、いそがしく感情をめぐらせつつ抱き上げ、夫婦の寝室に運び込んだのが今。
 イタリアから直輸入したキングサイズのベッドの上に降ろしたが、まだ沙織は起きそうにない。

(どうしてそんなに疲れているのか。日舞の稽古がきつかったのか)

 月曜日から金曜日まで、沙織は京都にいたときと同じく芸事習い事で埋められている。
 それが忙しいからと、夫婦あるいは女性同伴のパーティや社交の集いも断られ、仕方なしに秘書室長であり、沙織のスケジュール管理も任せている三見を連れて行っていたのだが。

(辞めさせるべきか。……いや、だが結婚の約束に京都にいたときと変わらない生活とあるしな)

 本人がしたいことを辞めさせるのは約束に反する。自分は冷徹だと言われるタイプの人間ではあるが、約束に関しては必ず守る誠実さは一応備えているつもりだ。
 それも沙織が起きてから再び話合わなければと思って居たときだ。

「んん……」

 寝返りを打とうとした沙織が、眉を寄せて軽く呻く。
 どうやら、太鼓結びにしている帯がつっかえてしまっているようだ。

「沙織、起きなさい。そのまま寝ては帯も着物も駄目になる」

 駄目になったところで、新たに守頭が買い与える気ではいるが、人にはそれぞれ物に思い入れがあるだろう。しかも今沙織が来ている胡桃渋の結城紬は京都からの嫁入り道具で気に入っているのか、ここのところよく着回している。
 沙織、と声をかけ背中に手を入れ起こした途端、まるで子どもが親に甘えるように彼女は守頭の首に腕を投げかけ寄りかかる。

「動きたく、ありません」

 そのままくにゃっと、ぬいぐるみみたいに体重を掛けられ守頭の心臓が逸る。

(あまりにも無防備すぎないか!?)
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