お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
3.
3.
「本当に? 本当にそう言っちゃったんだ。あの守頭瑛士に!」
言うなり爆笑したのは、高校時代の同級生で生徒会の会長でもあった天堂逸樹。
ちなみに沙織も生徒会で副会長をしていたが、幼稚舎から一緒だったので腐れ縁と言ってもいい。
彼は、癖の強い黒髪を散々に跳ねさせながら腹を抱え、呼吸困難かと思うほど笑い転げる。
個室を取っておいてよかった。でなければ他の客の迷惑になっていた。
一杯五千円だかするコーヒーを傾けながら、沙織は片目を閉じる。
場所は、老舗デパートの外商部奥にある、会員制の喫茶室。
フランス国王の愛妾が設立したという、ハイブランドの白磁でできたティーセットも、徹底してロココ調にこだわった部屋の内装も完璧だが、二人にとって特に驚くべきものではない。
というのも沙織の御所頭家ほどではないが、逸樹が後継となる天童家も古くからある資産家で、この手の内装や美術品など家にいくらでもあるのだ。
違いはといえば、純和風である沙織の御所頭家に対し、京都屈指のハイカラ――明治時代風洋館に、それに添った生活スタイルを誇っているのが天童家でもあるが。
今日だって市松模様の江戸小紋を着こなし、ハンドバッグも縮緬の手提げという相変わらずの日本人形スタイルの沙織に対し、逸樹は茶をベースとした三つ揃いという、イギリスの名探偵みたいなスタイルである。
見た目だって、日本人然とした沙織に対し、逸樹は髪こそ黒いものの癖がつよい髪は西洋画に出てくる天使みたいだし、焦げ茶の目は悪戯っぽい光を湛え、他界鼻筋とあいまってどこか外国人じみている。
ともかく、見た目も暮らしぶりも対称的だが、両家の仲はもちろん、二人の仲もなぜか悪くない。
(悪くない、といいますか、悪友といいますか)
腐れ縁の上に悪友。なんだかイメージのよくない単語が連なってるが、ようは幼なじみにして気の知れた友人であるのは間違いない。
「笑いすぎです」
「だって、人妻終了って……冷やし中華やお店の閉店じゃないんだから。普通にそこは離婚でよかったんじゃないの」
笑いすぎなのか、目の端に浮いた涙をぬぐいながら逸樹が言う。
「あー、しかし。沙織があの守頭瑛士と結婚したっていうから、驚いて帰国したんだけど、もう離婚かあ」
冷えてしまったコーヒーを部屋付きのギャルソンに合図して入れ直させながら、逸樹は腕を組む。
彼はつい四日前までアメリカはロサンゼルスにある大学に留学しており、沙織が結婚したと聞いて、急遽帰国してきた身だ。
「別に、私の結婚ぐらいで勉学を放り投げて帰って来なくてもよろしかったのに」
「残念。必要単位は修得済みだよ。もともと一年はスキップしてるからね。……あとは論文の審査待ち」
実家が投資会社をしているため、経済学を専攻しそのままマスターコース、つまり修士課程まで進んでいたが、そこもまたスキップした模様だ。
もとより逸樹はここぞという時の頭の回転とひらめきが常人離れしている。そのため、スキップしたことには驚きはしない。
日本最高峰の大学にも合格して通っていたが、八月に入るなり辞めて、アメリカの大学に入り直したぐらいなのだ。理由は、暇なのが嫌いだから日本の大学にしばらくいようと思った。というのだから、真面目な受験生に夜道で刺されかねない。
ともあれ文句なしの頭脳を持っているのだが、本人はそれを真面目にまっとうに活用する気がなく、気が向いた時に気が向いたように使う。しかも始末が悪いことに他人の騒動を高みの見物をするのが大好きという、生粋のトラブルメーカーでもある。
この天衣無縫な性格に、学生時代どれほど苦労させられたかは涙なしに語れない。
生徒会長としての仕事は勢いよく、副会長で真面目な沙織にぶん投げて、それでてんてこ舞いする姿を見ては笑うというのは日常茶飯事。
甘い容貌に百八十センチを超えるという、アイドルのような外見に群がる女子が脚を引っ張り合うのを見てはニヤニヤし、後始末は沙織に投げる。
かと思えば、生徒の意見を一瞬にしてとりまとめて不条理な校則を撤回させたりと、ともかく行動が読めない。
読めない、が、なぜか憎めないのは、逸樹本人も自覚のある無邪気スマイルと、裏表のない爽快な性格故だろう。
ともかく、沙織が結婚したと聞いてからかうつもりなのか、一騒動あると嗅ぎつけて来たのか、帰国した逸樹は現在東京駅の至近にあるハイグレードホテル暮らし。
それも親のすねをかじっているのではなく、高校時代からコツコツと小遣いを使いやっていた投資の余剰金でのスイートルーム滞在というのだから、まったく恐れ入る。
沙織など、家意外の場所に寝泊まりしたのは結婚してようやくだというのに。
「人妻終了宣言を受けた守頭が、どういう顔をしたのかすっごく気になるや。スマートフォンで写真とか撮らなかったの」
「撮る訳ありません。こちらは真剣でしたから。それと、さして表情に変化はありませんでしたよ」
やや驚いていたようではあるが、表情の変化がわかるほどの付き合いもなかったので、あくまで推測の域を出ない。
「なるほど。それも守頭瑛士っぽいといえばぽい」
「さっきから繰り返し旦那様の名前を言われてますが、そんなに有名なのですか」
嫌味かなにかかと思ったが、純粋に興味があるようだと気づき沙織は問いかける。
「そりゃね。投資の世界では寵児扱いだよ。……冷静にして大胆、即断かつ勇敢。これはどうかなっていう危ない橋も、持ち前の計算と揺るぎない判断力で切り抜けてしまう。その上、勘もいい。頼りにしてる資産家は多いよ」
運ばれてきた新たなコーヒーに口を付け、逸樹は続ける。
「企業買収コンサルをやっている彼の会社だって、少数精鋭でそれぞれが優秀。報酬が破格なのもあって、今、話題になっている。……そのうち、日本の財界でも名前が出るようになるんじゃないかな」
そんなにすごい人物なのか。いまいちピンとこないが。
ただ冷淡といか感情の波が平坦な部分は納得できる。昨日だって、とくに驚いた様子もなく、諭すように沙織と会話していた。
彼が感情を見せたのは、多分、沙織が見合い相手に不埒を働かされそうになったのを助けた時ぐらいだ。
(政略結婚の妻に、本音を見せる男性も多くはないでしょうけれど)
なんだかつまらない。結婚することでもっとなにかが変わると思っていたのに、結局はなにも変わらず、変えようと行動に起こし離婚を申し出たのに、話しがうやむやなまま終わり、沙織は未だに守頭の妻だ。
「それで? 離婚してくれるって?」
「……実家に融資した一億はどうするかと聞かれて、それでおしまいです」
一夜明けて今朝。沙織が目を覚ました時、珍しく守頭がいた。
だけでなく、テーブルの上にはパンとスクランブルエッグにサラダという、簡単ではあるが、彼が作ったらしき食事が並べられていて、これは話の続きができるかもと期待した。
だけど二人揃って席につき、フォークを持ち上げた瞬間に守頭の携帯からけたたましい電子音が鳴り響いた。
会社からの呼び出しだ。
守頭はそれでも、少し遅れるとか、待てないのかとか、沙織との時間を取ろうと抵抗していたようだが、結局は食事も取らぬまま出ていくこととなってしまった。
その時、申し訳なさそうに眉を寄せていたから、話をする気自体はあるらしい。
もともと、言葉が少なくはあるが沙織が問えば答える男だ。時間さえあれば離婚について話合うことは可能だろう。
だが会社が――というより、あの秘書室長がそれを許さない。
頭の中に理知的な顔をしたセミロングの美女の顔が浮かび、沙織は思わず眉間に皺を寄せて溜息を吐く。
「どうしたの」
「いえ。……別に」
夫に愛人がいるかもしれない。など、簡単に口にだすべきことじゃない気がして、沙織は頭を振る。
仕事が多忙なのは本当なのだろう。だが、その時彼の側に常に一人の女の存在があるのが、なぜかどうしてか気に食わない。
もともと間の恋だのとは無縁の、借金のカタでしかない結婚なのに妻気取りと沙織に言い放った嫌味な女――秘書室長の三見頼子が。
質の良くない毛織物を来た時のように、肌がチクチクする。
確かに相手の言う通りだが、沙織だって人形ではない。言われれば不快な思いもするし、悪意を向けられれば戸惑いもする。
(ああやだ。そんなことを考えたい訳ではないのに)
立ち上るコーヒーの湯気を散らすそぶりで溜息をついて、沙織は顔を上げる。
「それより、アメリカはどうでしたか。……逸樹さんの気風に合っていたようですが」
「まあね。いろいろ楽しかったよ。……日本に比べて規模も大きい国だから、あちこちに出かけて見聞を拡げたり、取引も桁違いだからワクワクした。いくつかベンチャーの立ち上げにも投資したりしてね。それは順調」
そんな切り口で始まった逸樹の土産話を聞いて一時間ほどだろうか。
ふと、といった調子で彼が目を大きくし、スーツの内ポケットから封筒を出す。
凝った模様の封蝋が押された純白の封筒を、テーブルの上に乗せて差し出され沙織は目を瞬かす。
「例の件の報酬、忘れる処だった」
「ああ」
「本当に? 本当にそう言っちゃったんだ。あの守頭瑛士に!」
言うなり爆笑したのは、高校時代の同級生で生徒会の会長でもあった天堂逸樹。
ちなみに沙織も生徒会で副会長をしていたが、幼稚舎から一緒だったので腐れ縁と言ってもいい。
彼は、癖の強い黒髪を散々に跳ねさせながら腹を抱え、呼吸困難かと思うほど笑い転げる。
個室を取っておいてよかった。でなければ他の客の迷惑になっていた。
一杯五千円だかするコーヒーを傾けながら、沙織は片目を閉じる。
場所は、老舗デパートの外商部奥にある、会員制の喫茶室。
フランス国王の愛妾が設立したという、ハイブランドの白磁でできたティーセットも、徹底してロココ調にこだわった部屋の内装も完璧だが、二人にとって特に驚くべきものではない。
というのも沙織の御所頭家ほどではないが、逸樹が後継となる天童家も古くからある資産家で、この手の内装や美術品など家にいくらでもあるのだ。
違いはといえば、純和風である沙織の御所頭家に対し、京都屈指のハイカラ――明治時代風洋館に、それに添った生活スタイルを誇っているのが天童家でもあるが。
今日だって市松模様の江戸小紋を着こなし、ハンドバッグも縮緬の手提げという相変わらずの日本人形スタイルの沙織に対し、逸樹は茶をベースとした三つ揃いという、イギリスの名探偵みたいなスタイルである。
見た目だって、日本人然とした沙織に対し、逸樹は髪こそ黒いものの癖がつよい髪は西洋画に出てくる天使みたいだし、焦げ茶の目は悪戯っぽい光を湛え、他界鼻筋とあいまってどこか外国人じみている。
ともかく、見た目も暮らしぶりも対称的だが、両家の仲はもちろん、二人の仲もなぜか悪くない。
(悪くない、といいますか、悪友といいますか)
腐れ縁の上に悪友。なんだかイメージのよくない単語が連なってるが、ようは幼なじみにして気の知れた友人であるのは間違いない。
「笑いすぎです」
「だって、人妻終了って……冷やし中華やお店の閉店じゃないんだから。普通にそこは離婚でよかったんじゃないの」
笑いすぎなのか、目の端に浮いた涙をぬぐいながら逸樹が言う。
「あー、しかし。沙織があの守頭瑛士と結婚したっていうから、驚いて帰国したんだけど、もう離婚かあ」
冷えてしまったコーヒーを部屋付きのギャルソンに合図して入れ直させながら、逸樹は腕を組む。
彼はつい四日前までアメリカはロサンゼルスにある大学に留学しており、沙織が結婚したと聞いて、急遽帰国してきた身だ。
「別に、私の結婚ぐらいで勉学を放り投げて帰って来なくてもよろしかったのに」
「残念。必要単位は修得済みだよ。もともと一年はスキップしてるからね。……あとは論文の審査待ち」
実家が投資会社をしているため、経済学を専攻しそのままマスターコース、つまり修士課程まで進んでいたが、そこもまたスキップした模様だ。
もとより逸樹はここぞという時の頭の回転とひらめきが常人離れしている。そのため、スキップしたことには驚きはしない。
日本最高峰の大学にも合格して通っていたが、八月に入るなり辞めて、アメリカの大学に入り直したぐらいなのだ。理由は、暇なのが嫌いだから日本の大学にしばらくいようと思った。というのだから、真面目な受験生に夜道で刺されかねない。
ともあれ文句なしの頭脳を持っているのだが、本人はそれを真面目にまっとうに活用する気がなく、気が向いた時に気が向いたように使う。しかも始末が悪いことに他人の騒動を高みの見物をするのが大好きという、生粋のトラブルメーカーでもある。
この天衣無縫な性格に、学生時代どれほど苦労させられたかは涙なしに語れない。
生徒会長としての仕事は勢いよく、副会長で真面目な沙織にぶん投げて、それでてんてこ舞いする姿を見ては笑うというのは日常茶飯事。
甘い容貌に百八十センチを超えるという、アイドルのような外見に群がる女子が脚を引っ張り合うのを見てはニヤニヤし、後始末は沙織に投げる。
かと思えば、生徒の意見を一瞬にしてとりまとめて不条理な校則を撤回させたりと、ともかく行動が読めない。
読めない、が、なぜか憎めないのは、逸樹本人も自覚のある無邪気スマイルと、裏表のない爽快な性格故だろう。
ともかく、沙織が結婚したと聞いてからかうつもりなのか、一騒動あると嗅ぎつけて来たのか、帰国した逸樹は現在東京駅の至近にあるハイグレードホテル暮らし。
それも親のすねをかじっているのではなく、高校時代からコツコツと小遣いを使いやっていた投資の余剰金でのスイートルーム滞在というのだから、まったく恐れ入る。
沙織など、家意外の場所に寝泊まりしたのは結婚してようやくだというのに。
「人妻終了宣言を受けた守頭が、どういう顔をしたのかすっごく気になるや。スマートフォンで写真とか撮らなかったの」
「撮る訳ありません。こちらは真剣でしたから。それと、さして表情に変化はありませんでしたよ」
やや驚いていたようではあるが、表情の変化がわかるほどの付き合いもなかったので、あくまで推測の域を出ない。
「なるほど。それも守頭瑛士っぽいといえばぽい」
「さっきから繰り返し旦那様の名前を言われてますが、そんなに有名なのですか」
嫌味かなにかかと思ったが、純粋に興味があるようだと気づき沙織は問いかける。
「そりゃね。投資の世界では寵児扱いだよ。……冷静にして大胆、即断かつ勇敢。これはどうかなっていう危ない橋も、持ち前の計算と揺るぎない判断力で切り抜けてしまう。その上、勘もいい。頼りにしてる資産家は多いよ」
運ばれてきた新たなコーヒーに口を付け、逸樹は続ける。
「企業買収コンサルをやっている彼の会社だって、少数精鋭でそれぞれが優秀。報酬が破格なのもあって、今、話題になっている。……そのうち、日本の財界でも名前が出るようになるんじゃないかな」
そんなにすごい人物なのか。いまいちピンとこないが。
ただ冷淡といか感情の波が平坦な部分は納得できる。昨日だって、とくに驚いた様子もなく、諭すように沙織と会話していた。
彼が感情を見せたのは、多分、沙織が見合い相手に不埒を働かされそうになったのを助けた時ぐらいだ。
(政略結婚の妻に、本音を見せる男性も多くはないでしょうけれど)
なんだかつまらない。結婚することでもっとなにかが変わると思っていたのに、結局はなにも変わらず、変えようと行動に起こし離婚を申し出たのに、話しがうやむやなまま終わり、沙織は未だに守頭の妻だ。
「それで? 離婚してくれるって?」
「……実家に融資した一億はどうするかと聞かれて、それでおしまいです」
一夜明けて今朝。沙織が目を覚ました時、珍しく守頭がいた。
だけでなく、テーブルの上にはパンとスクランブルエッグにサラダという、簡単ではあるが、彼が作ったらしき食事が並べられていて、これは話の続きができるかもと期待した。
だけど二人揃って席につき、フォークを持ち上げた瞬間に守頭の携帯からけたたましい電子音が鳴り響いた。
会社からの呼び出しだ。
守頭はそれでも、少し遅れるとか、待てないのかとか、沙織との時間を取ろうと抵抗していたようだが、結局は食事も取らぬまま出ていくこととなってしまった。
その時、申し訳なさそうに眉を寄せていたから、話をする気自体はあるらしい。
もともと、言葉が少なくはあるが沙織が問えば答える男だ。時間さえあれば離婚について話合うことは可能だろう。
だが会社が――というより、あの秘書室長がそれを許さない。
頭の中に理知的な顔をしたセミロングの美女の顔が浮かび、沙織は思わず眉間に皺を寄せて溜息を吐く。
「どうしたの」
「いえ。……別に」
夫に愛人がいるかもしれない。など、簡単に口にだすべきことじゃない気がして、沙織は頭を振る。
仕事が多忙なのは本当なのだろう。だが、その時彼の側に常に一人の女の存在があるのが、なぜかどうしてか気に食わない。
もともと間の恋だのとは無縁の、借金のカタでしかない結婚なのに妻気取りと沙織に言い放った嫌味な女――秘書室長の三見頼子が。
質の良くない毛織物を来た時のように、肌がチクチクする。
確かに相手の言う通りだが、沙織だって人形ではない。言われれば不快な思いもするし、悪意を向けられれば戸惑いもする。
(ああやだ。そんなことを考えたい訳ではないのに)
立ち上るコーヒーの湯気を散らすそぶりで溜息をついて、沙織は顔を上げる。
「それより、アメリカはどうでしたか。……逸樹さんの気風に合っていたようですが」
「まあね。いろいろ楽しかったよ。……日本に比べて規模も大きい国だから、あちこちに出かけて見聞を拡げたり、取引も桁違いだからワクワクした。いくつかベンチャーの立ち上げにも投資したりしてね。それは順調」
そんな切り口で始まった逸樹の土産話を聞いて一時間ほどだろうか。
ふと、といった調子で彼が目を大きくし、スーツの内ポケットから封筒を出す。
凝った模様の封蝋が押された純白の封筒を、テーブルの上に乗せて差し出され沙織は目を瞬かす。
「例の件の報酬、忘れる処だった」
「ああ」