お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
 帰宅した頃にはすっかりと外は暗くなっていた。だが、沙織の気分は真昼よりも明るい。

 それは初めて自分だけのキャッシュカードを持てたからだった。

 銀行に行って、逸樹の付き添いで謝礼の小切手を換金し、作ったばかりの沙織の、沙織だけの口座に入金して貰った。
 なにもかもが初めての体験でドキドキした。

 これで気兼ねなく、自分の好きな時に好きなものを買えるのかと思うとうれしくて、ピカピカで真っ赤なクレジットカードを財布にいれたり、出したりを繰り返しては頬燕手を繰り返し、仕舞いには逸樹に呆れられる有様だが、そんなことすら気にならない。

 そのまま最初の喫茶室へ戻り仕事の詳しい内容とやることを、これまた引き下ろしたばかりの現金で購入したノートと万年室で詳細にメモして、頭の中に叩き込んで、逸樹が持っていたタブレットパソコンで家の近くにあるオフィスの物件情報を見てとしているうちに時間は過ぎて、二日前に買ったばかりだという彼の車で家まで送ってもらったら、もう夜になっていた。

 普段であれば、食事の用意を急がなければとあわてるところだが、今日は余裕がある。というのも、離婚して出て行くつもりで作り置いた惣菜が山のように冷蔵庫に入っている上、掃除も一日や二日サボったところで大丈夫なよう昨日、家中を磨き上げたからだ。
 顔見知りのコンシェルジュにご機嫌ですねと微笑まれ、とてもいい一日でしたと返しエレベーターに乗って、最上階のワンフロアを占有している守頭の家に戻る。

 帰ったら仕事のことを頭に叩き込んで、逸樹が進めてくれた本を読んで勉強して、と、やることを考えながらドアを上げた沙織は、そこで一気に気分が覚めていくのを感じる。

 玄関に、黒いハイヒールが一つあったからだ。
 裏張りが深紅で知られるハイブランドのハイヒールなど、沙織は持っていないし、持っていたとしても合うような洋服もない。
 草履を脱ぎつつ大理石張りの玄関をみるも、他に靴はない。

 ということは守頭は戻って来ていないか、戻ってきたが先に出ていったかのどちらかだろう。

(また、あの秘書が来ているのね)

 途端に気分が重くなるのを感じながら足音を殺し廊下をあるいていると、わずかに開いた浴室の引き戸から水音が聞こえてくる。

(折角掃除したのに)

 つい愚痴めいたことを考えてしまうがしょうがない。
 昨日離婚するつもりだったとはいえ、できなかった以上、沙織はまだこの家の主婦だ。
 断りもなくプライベートな空間――浴室を使われて嬉しい訳がない。

 開けるべきかどうするか。五分ほど悩んでいると水音が止まり、バスローブを纏った女性が髪を拭きながら出てきた。

 背の高い美人だ。髪の長さは肩ほどまでで切りそろえられているが、それがきりりとしたまなじりが上がり気味の顔によく似合っていて、都会的でクールな印象を醸し出している。
 手足はすらりと長く、すべてが平均的な沙織と違い、胸はつんと突き出てバスローブを押し上げ、ウエストは見てわかるほどほっそりしている。尻の形だっていい。
 守頭と並んだらビジネスファッション誌の表紙を飾れるだろう、見事なモデル体型と整った顔の女は、彼の第二秘書――結婚するまでは第一秘書で、今は秘書室長に昇格し、引き継ぎのためにをも兼任している三見(さんみ)頼子(よりこ)だ。

 彼女の名前とともに、嫌な噂をも思い出し顔をしかめていると、相手は男ならだれもがうっとりするだろう妖艶な笑顔を見せてから口を開いた。

「あら? 戻られたのですね、奥様」

 奥様という単語にたっぷり皮肉をまぶしながら言われ、沙織は顔から表情が消えるのを自覚する。

「ええ。……まさか、主人の秘書が勝手に家に入って、おまけに浴室まで使っているとは思いませんでしたけれど」

 びっくりしましたわ。泥棒と間違えて通報しようかと思ってましたの。と続けたいのをぐっと抑え相手を見る。
 ところが相手は沙織の嫌味に顔色一つかえず、どころか悪びれもしない態度で微笑んだ。

「これからあるパーティーに着ていくスーツを取りに伺ったのですが、ご不在のようで勝手に入らせていただきました。場所はわかっていましたし」

 言葉に、この家のことなら沙織以上に知っている。守頭と暮らしたことを疑われてもかまわないという開き直りを見せつつ言われ鼻白む。

「あら、そうですか。……でもスーツだけでなくシャワーを使われる必要はなかったのでは?」

 やられっぱなしなのもしゃくに障るので、再度、勝手に浴室を使ったことを強調し尋ねれば、相手はふふっと小馬鹿にした風な笑いを漏らし続けた。

「急いでいたもので汗を掻いてしまって。瑛士さん……いえ、社長からは好きにしていいと言われたのもありますし、パーティーのために香水を付け替える必要もありますしね」

 三見は肩をすくめて腕を撫でる。
 
昼のビジネスシーンと、夜のパーティで香水を変えるのは一種のマナーだ。
 仕事中は邪魔にならず清潔感のあるものが似合いでも、夜のパーティーでは華やかさに欠けるし、仕事を思わせ場にそぐわない。
 だから蘭や薔薇などのゴージャスでフローラルな香りにイブニングドレスや、格式の高い着物で出席するのが普通ではあるが。

(だからって、上司の家で、妻の許しもなくシャワーを使うのは無神経)

 非常識と言っても差し支えない。

 政略結婚で夫婦としての実体がないにしても、それを守頭から聞いているにしても、建前ぐらいは守ってほしい。
 離婚して自由になる気は満々でも、妻として蔑ろにされるのは少し面白くない。
 それをどう差し支えなく伝えようかと考えていると、三見はこれ見よがしに溜息をついた。

「それで? 奥様、私、このままでは風邪をひいてしまいますし、十九時からのパーティーに遅れてしまいます。それとも、奥様が代わりに出席なさいますか?」

 いちいち一言多いと思う。今から準備したって、どうしてもパーティーに間に合いはしないと、守頭の同伴を数多くこなして来た三見ならわかっているだろうに。

 パーティーといっても、それがなんの目的であるのか、立食か着席か、どのタイプの界隈が集まり、どの年齢層が多いのかで服装や小物、香水から持ち物一つ取っても変わってくる。
 今から変われと言われても、まず合う着物がない。そもそも、守頭と結婚してからこれといって服を買った記憶がない。
 カードを渡されてはいるが、勝手に使っていいのか。どれほど使っていいのかわからないし、外商を呼ぶにもどこのデパートと懇意にしているかわからない。

 結果、沙織は、御所頭家の名を乞われて結婚したというのに、それを活かすべきパーティや集いに傘下したことはない。
 いつだってギリギリに三見が知らせてくるのもあるし、酷い時は事後にパーティーだと知ったりもする。

 もちろん招待状は沙織も一緒にと書かれているだろうが、結婚した以上、家の代表が守頭なので、その類いの招待状は全部守頭に――会社の方へ届くのだろう。

 これ以上、三見と不毛な言い争いをしたくなくて、沙織は問いかけを無視して自室へと向かう。
 その背後で、これ見よがしに三見が含み笑いするのを聞きつつ扉を閉めると、そのままぺたりと床へ座る。

 離婚の理由は、結婚した意味がないから。
 妻として求められることもなく、公の場に連れ出されるでもなく、京都に住んでいた時と同じように籠の鳥の暮らしを強いられるから。

(もう一つは、三見頼子という女の存在が不愉快だから……というのは子どもでしょうか)

 溜息がこぼれる。まだ家にいる三見に聞かれるのは嫌だが、幸いなことにこのマンションの防音性はそこそこに高い。溜息一つぐらい聞こえないだろう。
< 22 / 52 >

この作品をシェア

pagetop