お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
◇◆◇
守頭瑛士が最後のメールを送信し終わったと同時に、社長室のドアが開く。
廊下から流れ込んでくる、甘ったるい薔薇の香りで相手に気付いた主張はパソコンのディスプレイから目も放さず不機嫌に言い放った。
「ノックしろと言ったはずだが」
「あら。急いでいましたので忘れてしまいましたわ。大変失礼を」
そう口にしているものの、この癖が改善されることがない。最近では注意するのも面倒で放置していたが、それで見放されたと思わず、自分が特別だと周囲に見せつけるよう、ますます大胆にドアを開けるのだから底が浅い。
溜息をつきつつ目元を揉み、デスクの上の時計を確認すると十八時十五分を指していた。
「遅かったな。スーツを取りに行くだけなのに。その上、頼んだのは君にではなく、第一秘書の初瀨川にだったはずだが」
「初瀨川君は、明日のスケジュール調整で手が離せないようでしたので、代わりに私が。それとついでに家でシャワーを浴びさせていただきました。昼のままではメイクも香水も場違いですので」
仕事をするには派手な赤いルージュを塗った唇を、艶然とした笑みに歪めつつ秘書室長兼第二秘書の三見が言う。
聞いた途端、眉間の皺が深くなる。
「どうして君が? 私は午前中のうちに妻に今夜のパーティーに同伴してくれるよう連絡を頼んだはずだが」
本当なら、自分から電話をしたかったが、今日は午前中からクライアントとの打合せが分単位で入れこんであり、昼食すら取る機会がなかった。
「奥様はお出かけのようで連絡が取れず。個人的なスマートフォンの連絡先は存じ上げてませんので」
初瀨川に聞けばいいだろう。と言いたいが、言ったところでのらりくらりと話を逸らされるのは目に見えていた。
「どちらにしても、私がスーツを取りに行った時に帰宅されたようでしたから、来るのは無理かと」
空いた時間に、と伝えていたからそんなギリギリに行かなくてもいいはずなのだが、あえて夕方に行って、時間がないと断らせたかったのだろう。
(初瀨川には厳しく言わないとな。……いちいち三見に報告するなと)
そもそも、第二秘書という役職も彼女が勝手に名乗っているだけだ。秘書室長の役職に、休暇を取った秘書の代理や新人のフォローが入っているが、守頭の秘書となって一年経つ初瀨川に、もう、そんなフォローは必要ないだろう。
いずれ解雇するつもりだが、今はそれだけの材料がない。
(例の件に関しても、もう少し泳がせておく必要がある)
見えないようにデスクの下で拳を握る。女でなかったら殴っていたかもしれないなと自嘲的に思うも、沙織は暴力を嫌うだろうと思うと力が抜けた。
「着替える」
「先に移動されては? 会場のホテルに部屋をお取りしております。会社だと落ち着いて準備できませんし」
当然のように言われ、それもどうなんだと思う。
これまでならよしとしていたが、今は既婚者だ。用もないのにホテルの部屋に女と出入りするような真似はしたくない。
かといって会社で着替えるとなればそれはそれで頭が痛い。
社長室がある守頭はともかく、三見はこれみよがしに更衣室でドレスに着替え、妻代わりに守頭の同伴者としてパーティーへ行くのだと吹聴しまくるだろう。
若い女性社員から、女房面をしたお局様と陰口を叩かれようがどこ吹く風で。
「だったら初瀨川も連れていく。仕事ならホテルの部屋でもできるだろう。なにかあったときのために待機させたい」
こうすれば女と二人きりという状況にはならない。折衷案な上に自分の用事で多忙な初瀨川を付き合わせるのは気が引けたが、それより他に、なにより沙織にどう思われるかが重要だ。
(離婚を言い出すぐらいだからな)
妻としての実体がない。だから離婚すると主張された時、大方、三見のことで拗ねているのだろうと思った。
沙織と結婚するにあたって、不自由はさせないと決めていた。
だから家政婦の人員も増やしたし、習い事に関しても同じ流派の教室を徹底して調べさせ、送迎も手配した。
欲しいものがあればいつでも買えるように、限度額無制限の家族カードを渡していたし、コンシェルジュに頼めば懇意にしているデパートから外商が来るように手配も着いている。
およそ女が望みうるあらゆる幸せに囲まれているのに離婚したいというなら、それは守頭あるいはその身辺に不満があるとしか思えない。
三見を早く遠ざけたい。が、今は無理だ。
三見は親が製薬会社を営んでいたが、薬品倉庫で火事を出し、一気に会社の株が落ちた。そこに目を付け、守頭が買収したのだが、三見の親から株を買う際、価格を抑える代わりに、会社で秘書をしている娘を雇って貰えないかと打診された。
守頭自身、さして秘書は必要ではなかったが、それで安く買いたたけるものなら、人一人の人件費など安いものだ。
その上、三見の製薬会社は近年流行しだした新種のウイルスを予防するワクチンの開発にも参加しており、今後の成長は十分に見込めた。
当時、ライバル他社も手を伸ばしていたこともあり、まあ、四,五年ほど雇っておけば、三見も三十半ば近くなり、いずれ見合いして寿退社するだろうと安易に考えたのは失敗だった。
最初こそ、控えめで気が利く、その上頭の回転がいい――つまり、使い勝手のいい有能な秘書であったが、年を得るごとに守頭のプライベートに踏み込んできては、恋人面、沙織と電撃結婚してからはあからさまに女房面をし始めた。
それがうとましくて秘書室長へ昇進を装った異動をさせたのだが、相手は諦めが悪く、新たに秘書となった初瀨川には荷が重いからフォローするという名目で、変わらず守頭の側をうろついている。
結婚市場における自分の価値は、嫌でも知っている。
というのも、パーティーに出れば既婚未婚を問わず秋波の眼差しを送られるならまだいいほう。ずっとつきまとってきたり、あるいは親が娘を売り込もうと長々と引き留めてくる。
もともと恋愛にも結婚にも興味が薄い上、自分の外見と資産ばかりしか見ない者達に好意を抱ける訳がない。
三見も同様で、欠片ほどの好意がない。
自分の外見に自信を持ち、磨くことに余念がないのはまあいい。だが、それで男が自分の思うままに動く、あるいは落とせると思い上がっているところが気に食わない。
秘書としてかつ、女避けとして有能だったため側に置いていたが、結婚した以上は用済みだ。
さっさと追い払い、同伴者の座に沙織が欲しい。
そう思うのに、当の本人は気が乗らない、体調が悪い、準備が整わないと断ってくるばかりで、まるで守頭に付き添う気がない。
社交界からの招待状が届くようになったから、御所頭家としての役割は果たしたと言わんばかりに、表に姿を現すことを避けている。
離婚の話も含めて、社交の場に同伴してほしいとの希望も聞くべきだと、頭の中のメモ帳に赤字で記載しつつ、守頭は社長の椅子から立ち上がった。
守頭瑛士が最後のメールを送信し終わったと同時に、社長室のドアが開く。
廊下から流れ込んでくる、甘ったるい薔薇の香りで相手に気付いた主張はパソコンのディスプレイから目も放さず不機嫌に言い放った。
「ノックしろと言ったはずだが」
「あら。急いでいましたので忘れてしまいましたわ。大変失礼を」
そう口にしているものの、この癖が改善されることがない。最近では注意するのも面倒で放置していたが、それで見放されたと思わず、自分が特別だと周囲に見せつけるよう、ますます大胆にドアを開けるのだから底が浅い。
溜息をつきつつ目元を揉み、デスクの上の時計を確認すると十八時十五分を指していた。
「遅かったな。スーツを取りに行くだけなのに。その上、頼んだのは君にではなく、第一秘書の初瀨川にだったはずだが」
「初瀨川君は、明日のスケジュール調整で手が離せないようでしたので、代わりに私が。それとついでに家でシャワーを浴びさせていただきました。昼のままではメイクも香水も場違いですので」
仕事をするには派手な赤いルージュを塗った唇を、艶然とした笑みに歪めつつ秘書室長兼第二秘書の三見が言う。
聞いた途端、眉間の皺が深くなる。
「どうして君が? 私は午前中のうちに妻に今夜のパーティーに同伴してくれるよう連絡を頼んだはずだが」
本当なら、自分から電話をしたかったが、今日は午前中からクライアントとの打合せが分単位で入れこんであり、昼食すら取る機会がなかった。
「奥様はお出かけのようで連絡が取れず。個人的なスマートフォンの連絡先は存じ上げてませんので」
初瀨川に聞けばいいだろう。と言いたいが、言ったところでのらりくらりと話を逸らされるのは目に見えていた。
「どちらにしても、私がスーツを取りに行った時に帰宅されたようでしたから、来るのは無理かと」
空いた時間に、と伝えていたからそんなギリギリに行かなくてもいいはずなのだが、あえて夕方に行って、時間がないと断らせたかったのだろう。
(初瀨川には厳しく言わないとな。……いちいち三見に報告するなと)
そもそも、第二秘書という役職も彼女が勝手に名乗っているだけだ。秘書室長の役職に、休暇を取った秘書の代理や新人のフォローが入っているが、守頭の秘書となって一年経つ初瀨川に、もう、そんなフォローは必要ないだろう。
いずれ解雇するつもりだが、今はそれだけの材料がない。
(例の件に関しても、もう少し泳がせておく必要がある)
見えないようにデスクの下で拳を握る。女でなかったら殴っていたかもしれないなと自嘲的に思うも、沙織は暴力を嫌うだろうと思うと力が抜けた。
「着替える」
「先に移動されては? 会場のホテルに部屋をお取りしております。会社だと落ち着いて準備できませんし」
当然のように言われ、それもどうなんだと思う。
これまでならよしとしていたが、今は既婚者だ。用もないのにホテルの部屋に女と出入りするような真似はしたくない。
かといって会社で着替えるとなればそれはそれで頭が痛い。
社長室がある守頭はともかく、三見はこれみよがしに更衣室でドレスに着替え、妻代わりに守頭の同伴者としてパーティーへ行くのだと吹聴しまくるだろう。
若い女性社員から、女房面をしたお局様と陰口を叩かれようがどこ吹く風で。
「だったら初瀨川も連れていく。仕事ならホテルの部屋でもできるだろう。なにかあったときのために待機させたい」
こうすれば女と二人きりという状況にはならない。折衷案な上に自分の用事で多忙な初瀨川を付き合わせるのは気が引けたが、それより他に、なにより沙織にどう思われるかが重要だ。
(離婚を言い出すぐらいだからな)
妻としての実体がない。だから離婚すると主張された時、大方、三見のことで拗ねているのだろうと思った。
沙織と結婚するにあたって、不自由はさせないと決めていた。
だから家政婦の人員も増やしたし、習い事に関しても同じ流派の教室を徹底して調べさせ、送迎も手配した。
欲しいものがあればいつでも買えるように、限度額無制限の家族カードを渡していたし、コンシェルジュに頼めば懇意にしているデパートから外商が来るように手配も着いている。
およそ女が望みうるあらゆる幸せに囲まれているのに離婚したいというなら、それは守頭あるいはその身辺に不満があるとしか思えない。
三見を早く遠ざけたい。が、今は無理だ。
三見は親が製薬会社を営んでいたが、薬品倉庫で火事を出し、一気に会社の株が落ちた。そこに目を付け、守頭が買収したのだが、三見の親から株を買う際、価格を抑える代わりに、会社で秘書をしている娘を雇って貰えないかと打診された。
守頭自身、さして秘書は必要ではなかったが、それで安く買いたたけるものなら、人一人の人件費など安いものだ。
その上、三見の製薬会社は近年流行しだした新種のウイルスを予防するワクチンの開発にも参加しており、今後の成長は十分に見込めた。
当時、ライバル他社も手を伸ばしていたこともあり、まあ、四,五年ほど雇っておけば、三見も三十半ば近くなり、いずれ見合いして寿退社するだろうと安易に考えたのは失敗だった。
最初こそ、控えめで気が利く、その上頭の回転がいい――つまり、使い勝手のいい有能な秘書であったが、年を得るごとに守頭のプライベートに踏み込んできては、恋人面、沙織と電撃結婚してからはあからさまに女房面をし始めた。
それがうとましくて秘書室長へ昇進を装った異動をさせたのだが、相手は諦めが悪く、新たに秘書となった初瀨川には荷が重いからフォローするという名目で、変わらず守頭の側をうろついている。
結婚市場における自分の価値は、嫌でも知っている。
というのも、パーティーに出れば既婚未婚を問わず秋波の眼差しを送られるならまだいいほう。ずっとつきまとってきたり、あるいは親が娘を売り込もうと長々と引き留めてくる。
もともと恋愛にも結婚にも興味が薄い上、自分の外見と資産ばかりしか見ない者達に好意を抱ける訳がない。
三見も同様で、欠片ほどの好意がない。
自分の外見に自信を持ち、磨くことに余念がないのはまあいい。だが、それで男が自分の思うままに動く、あるいは落とせると思い上がっているところが気に食わない。
秘書としてかつ、女避けとして有能だったため側に置いていたが、結婚した以上は用済みだ。
さっさと追い払い、同伴者の座に沙織が欲しい。
そう思うのに、当の本人は気が乗らない、体調が悪い、準備が整わないと断ってくるばかりで、まるで守頭に付き添う気がない。
社交界からの招待状が届くようになったから、御所頭家としての役割は果たしたと言わんばかりに、表に姿を現すことを避けている。
離婚の話も含めて、社交の場に同伴してほしいとの希望も聞くべきだと、頭の中のメモ帳に赤字で記載しつつ、守頭は社長の椅子から立ち上がった。