お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
パーティーは散々だった。
人が多いばかりなせいか、話をしたい、伝手を作りたいと思った人物はなかなか捕まらない上、好奇に満ちた周囲の視線が一際気持ちをいらだたせた。
理由はわかっている。妻ではなく秘書の三見を連れているからだ。
同伴と言えば、妻か母や姉妹が通常で遠くて従兄弟まで。さもなければ婚約者が暗黙の了解の中、会社の秘書を連れている男は多くない。
年がいっていて支えが必要なものや、すでに夫婦生活が破綻していると知られる年寄り社長ならいざ知らず、まだ若く、独身で相手が定まってない訳でもない守頭が秘書を連れているというのは、これは愛人ですと告げているようなものだ。
いくら塩対応でろくに話も帰さないという態度を取っていても、隣に立つ三見が始終ニコニコ上機嫌にしていれば、嫌な噂から逃れようがない。
しかも今回の主催者の妻は神戸出身で、華道では沙織の姉弟子にあたるという筋の人。
挨拶の時に冷ややかな目で見つめられ、奥様はお元気と、実に見事に冷えた声で言われた時から、今夜は参加を見送るべきだったと悟る。
途中、海外から仕事の電話が来たので、これ幸いと場を話せば、飼い主が引き綱を放した犬よろしく、三見は見えない尻尾を振りながら独身男性たちの輪に入り、社交マナーもなにもない、あけすけな冗談――下ネタぎりぎりなやつだ――に声を上げて笑っていた。
一応でも社長令嬢であったのだから、それなりのマナーは備えているが、こういう上流の社交界では喜ばれない態度だ。
実際、三見の側に寄っているのは遊び人との噂も絶えない、女を引っかけては連れ回し、飽きては捨てると有名な令息グループで、人の輪もそこだけくっきり浮いていた。
連れ戻す気にもなれず、壁際でぼんやりそれを見つめ、左手の薬指に嵌まる結婚指輪を回していると、懇意にしているクライアントのマダムが訳知り顔で困った物ねと苦笑した。
まったくだ。
無言で頷き、その後密かに三見に関する情報を得られたことだけが唯一の収穫だろう。
まだ会場で挨拶しきってないと、パーティーから抜けるのを渋る三見をにらみつけ、明日も早朝から会議があると早々に抜け出し、会社の手配したリムジンに三見だけを押し込んで、守頭はタクシーで自宅へ戻る。
途中で渋滞にはまってしまい、その間、ずっと沙織にメッセージを送っていたが、まったく既読のマークが付かない。
(眠っているのか)
基本的に沙織が寝る時間は早い。どうかすると二十二時には寝てしまう。
その頃に帰宅することが多い守頭とは完全に逆だ。
(それでも自分は、結婚して良かったと思っている)
帰宅して、お帰りなさい。お休みなさいませ。たったそれだけの会話でも、疲れて色褪せた世界が鮮やかなものに感じられるし、挨拶できなくても、眠る沙織の顔を見るだけで、訳もなく幸せだと感じたりする。
それがどれほど癒やしになっているか。
日中は気を緩める隙など一切ない、金と情報をやりとりし相手を潰す、潰さないのビジネスに明け暮れ神経をすり減らし、情を抱いて判断を狂わせないよう、あえて緊張させ平坦に保っている心が、沙織を見るだけで、柔らかく心地よいものへと変わって行く。
その感情をなんというか知らないが。
残念に思いつつ溜息を吐いていると、いつしかタクシーは自宅のあるハイグレードマンションの前に着いており、計算するのも面倒で一万円札を押しつけ車を降りた。
エレベーターを最上階で降り、エントランスにある応接セットの間を抜ければ、そこはもう守頭の家だ。
カードキーをかざしドアを開ければ、人感センサーが働きライトが灯る。
これは寝て居るな、とスーツのタイを緩めながら奥へすすめばリビングの明かりが煌々と付いていた。
「……また寝落ちしたのか」
つい昨日、話合いの途中で沙織が寝落ちしたのを思い出しつつリビングへ入る。と、予想通りソファに背を預け身動きしない沙織の姿。
昨日の今日だ。話をしようと守頭を待っていたのかもしれない。
(俺を、待っていた、のか?)
途端、勝手に顔が緩み微笑みの形になる。もっとも、長年無表情でいたため、守頭が微笑んでいることに気づけるのは付き合いが長い友人だけに限るが。
ともかく、一瞬で疲れが消えて心が緩むのを自覚しつつ相手に近寄る。
座ったまま寝て居ては首を痛めるかもしれないし、なにより風邪を引いてしまう。
パーティーへの同席を断られたことに対する苛立ちはもうなく、ただただ庇護の欲求ばかり募る。
ソファの背に垂れる黒髪に指を沿わせ、すくい上げた瞬間だった。
「ひゃっ……!」
沙織の口から小さな悲鳴が上がり、同時に紙の束が床に落ちる乾いた音が当たりに響く。
なんだ、驚き上向く沙織の頭越しに彼女の手元を見れば、開いた手の間から本が一冊、床に落ちていた。
「……経済書……?」
守頭の書斎にある本の中で、比較的優しい内容のものだと気づき声を上げれば、顎の下から声がする。
「ごめんなさい旦那様、勝手に書斎に入ってしまって。でも、どうしても本を読んでみたくて」
焦った声に顔を下向ければ、吐息がかかるほど近くに沙織の顔がありドキリとする。
相手もそうなのか、白く、誰も踏みしめたことのない雪のような肌がほのかに朱を帯び色づいていく。
綺麗だな、と素直に思った。
先染めの桜色から熟した桃の瑞々しい色、最後に紅梅と、四季に咲き、実り、綻ぶ華や果実の朱を表す頬に見蕩れてしまう。
どうやったら、こんな綺麗な色になるのか。自分と同じ肌とは思えず、ほとんど無意識に手を動かし、指先で沙織のこめかみから頬を撫でていた。
「ッ……っ、だ、旦那様」
素っ頓狂に裏返った声で我に返れば、真っ赤になった沙織が目を逸らしながら「近いです」と訴える。
危ない。どうかしたら、いや、どうしなくてもキスしてしまう処だった。
理性も常識も関係なく、そうすることが正しいように思えてしまうとは。
(パーティーで飲み過ぎたか……)
そんなつもりはないのだが、どうも調子が狂っている。
沙織に手を出しそうになるとは。
彼女には話をしていないが、一つだけ自分で決めていることがある。
――守頭の名を使い、御所頭家に詐欺を働いた犯人を見つけるまでは、沙織を抱かない。と。
今の状態で彼女を求め、抱いてしまえば、多分一生後悔する。
この結婚は、沙織を手に入れるための方便だったとはいえ、彼女と結婚するために御所頭家に一億を融資し成り立ったものだ。
そのため、今抱いては、彼女に金で買った、買われたという感情を残してしまう。それはなぜかためらわれた。
結ばれるのであれば違う形で、お互いに恋がなにかを理解した上で求め、求められたいと思う。
自分の中にそんなロマンチストな部分があることを面白く思いつつ、守頭が姿勢を正すと、沙織がわずかに焦りつつ立ち上がり、本を拾ってソファの横にあるコーヒーテーブルの上へ置く。
「お、お帰りなさいませ旦那様」
「……ただいま」
人が多いばかりなせいか、話をしたい、伝手を作りたいと思った人物はなかなか捕まらない上、好奇に満ちた周囲の視線が一際気持ちをいらだたせた。
理由はわかっている。妻ではなく秘書の三見を連れているからだ。
同伴と言えば、妻か母や姉妹が通常で遠くて従兄弟まで。さもなければ婚約者が暗黙の了解の中、会社の秘書を連れている男は多くない。
年がいっていて支えが必要なものや、すでに夫婦生活が破綻していると知られる年寄り社長ならいざ知らず、まだ若く、独身で相手が定まってない訳でもない守頭が秘書を連れているというのは、これは愛人ですと告げているようなものだ。
いくら塩対応でろくに話も帰さないという態度を取っていても、隣に立つ三見が始終ニコニコ上機嫌にしていれば、嫌な噂から逃れようがない。
しかも今回の主催者の妻は神戸出身で、華道では沙織の姉弟子にあたるという筋の人。
挨拶の時に冷ややかな目で見つめられ、奥様はお元気と、実に見事に冷えた声で言われた時から、今夜は参加を見送るべきだったと悟る。
途中、海外から仕事の電話が来たので、これ幸いと場を話せば、飼い主が引き綱を放した犬よろしく、三見は見えない尻尾を振りながら独身男性たちの輪に入り、社交マナーもなにもない、あけすけな冗談――下ネタぎりぎりなやつだ――に声を上げて笑っていた。
一応でも社長令嬢であったのだから、それなりのマナーは備えているが、こういう上流の社交界では喜ばれない態度だ。
実際、三見の側に寄っているのは遊び人との噂も絶えない、女を引っかけては連れ回し、飽きては捨てると有名な令息グループで、人の輪もそこだけくっきり浮いていた。
連れ戻す気にもなれず、壁際でぼんやりそれを見つめ、左手の薬指に嵌まる結婚指輪を回していると、懇意にしているクライアントのマダムが訳知り顔で困った物ねと苦笑した。
まったくだ。
無言で頷き、その後密かに三見に関する情報を得られたことだけが唯一の収穫だろう。
まだ会場で挨拶しきってないと、パーティーから抜けるのを渋る三見をにらみつけ、明日も早朝から会議があると早々に抜け出し、会社の手配したリムジンに三見だけを押し込んで、守頭はタクシーで自宅へ戻る。
途中で渋滞にはまってしまい、その間、ずっと沙織にメッセージを送っていたが、まったく既読のマークが付かない。
(眠っているのか)
基本的に沙織が寝る時間は早い。どうかすると二十二時には寝てしまう。
その頃に帰宅することが多い守頭とは完全に逆だ。
(それでも自分は、結婚して良かったと思っている)
帰宅して、お帰りなさい。お休みなさいませ。たったそれだけの会話でも、疲れて色褪せた世界が鮮やかなものに感じられるし、挨拶できなくても、眠る沙織の顔を見るだけで、訳もなく幸せだと感じたりする。
それがどれほど癒やしになっているか。
日中は気を緩める隙など一切ない、金と情報をやりとりし相手を潰す、潰さないのビジネスに明け暮れ神経をすり減らし、情を抱いて判断を狂わせないよう、あえて緊張させ平坦に保っている心が、沙織を見るだけで、柔らかく心地よいものへと変わって行く。
その感情をなんというか知らないが。
残念に思いつつ溜息を吐いていると、いつしかタクシーは自宅のあるハイグレードマンションの前に着いており、計算するのも面倒で一万円札を押しつけ車を降りた。
エレベーターを最上階で降り、エントランスにある応接セットの間を抜ければ、そこはもう守頭の家だ。
カードキーをかざしドアを開ければ、人感センサーが働きライトが灯る。
これは寝て居るな、とスーツのタイを緩めながら奥へすすめばリビングの明かりが煌々と付いていた。
「……また寝落ちしたのか」
つい昨日、話合いの途中で沙織が寝落ちしたのを思い出しつつリビングへ入る。と、予想通りソファに背を預け身動きしない沙織の姿。
昨日の今日だ。話をしようと守頭を待っていたのかもしれない。
(俺を、待っていた、のか?)
途端、勝手に顔が緩み微笑みの形になる。もっとも、長年無表情でいたため、守頭が微笑んでいることに気づけるのは付き合いが長い友人だけに限るが。
ともかく、一瞬で疲れが消えて心が緩むのを自覚しつつ相手に近寄る。
座ったまま寝て居ては首を痛めるかもしれないし、なにより風邪を引いてしまう。
パーティーへの同席を断られたことに対する苛立ちはもうなく、ただただ庇護の欲求ばかり募る。
ソファの背に垂れる黒髪に指を沿わせ、すくい上げた瞬間だった。
「ひゃっ……!」
沙織の口から小さな悲鳴が上がり、同時に紙の束が床に落ちる乾いた音が当たりに響く。
なんだ、驚き上向く沙織の頭越しに彼女の手元を見れば、開いた手の間から本が一冊、床に落ちていた。
「……経済書……?」
守頭の書斎にある本の中で、比較的優しい内容のものだと気づき声を上げれば、顎の下から声がする。
「ごめんなさい旦那様、勝手に書斎に入ってしまって。でも、どうしても本を読んでみたくて」
焦った声に顔を下向ければ、吐息がかかるほど近くに沙織の顔がありドキリとする。
相手もそうなのか、白く、誰も踏みしめたことのない雪のような肌がほのかに朱を帯び色づいていく。
綺麗だな、と素直に思った。
先染めの桜色から熟した桃の瑞々しい色、最後に紅梅と、四季に咲き、実り、綻ぶ華や果実の朱を表す頬に見蕩れてしまう。
どうやったら、こんな綺麗な色になるのか。自分と同じ肌とは思えず、ほとんど無意識に手を動かし、指先で沙織のこめかみから頬を撫でていた。
「ッ……っ、だ、旦那様」
素っ頓狂に裏返った声で我に返れば、真っ赤になった沙織が目を逸らしながら「近いです」と訴える。
危ない。どうかしたら、いや、どうしなくてもキスしてしまう処だった。
理性も常識も関係なく、そうすることが正しいように思えてしまうとは。
(パーティーで飲み過ぎたか……)
そんなつもりはないのだが、どうも調子が狂っている。
沙織に手を出しそうになるとは。
彼女には話をしていないが、一つだけ自分で決めていることがある。
――守頭の名を使い、御所頭家に詐欺を働いた犯人を見つけるまでは、沙織を抱かない。と。
今の状態で彼女を求め、抱いてしまえば、多分一生後悔する。
この結婚は、沙織を手に入れるための方便だったとはいえ、彼女と結婚するために御所頭家に一億を融資し成り立ったものだ。
そのため、今抱いては、彼女に金で買った、買われたという感情を残してしまう。それはなぜかためらわれた。
結ばれるのであれば違う形で、お互いに恋がなにかを理解した上で求め、求められたいと思う。
自分の中にそんなロマンチストな部分があることを面白く思いつつ、守頭が姿勢を正すと、沙織がわずかに焦りつつ立ち上がり、本を拾ってソファの横にあるコーヒーテーブルの上へ置く。
「お、お帰りなさいませ旦那様」
「……ただいま」