お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
 他にもっと話せればいいのだが、女性をまともに相手にしたことがないので、どう話せばいいのか迷ってしまう。迷っているうちに時間が過ぎて、今度は間の抜けた沈黙になり、どうにも会話が上手く行かない。

 ビジネスでは口が硬く信頼できると言われる、相手を読み切ってからしか口を開かない自分の慎重さが、今はわずらわしい。

「本、お返ししますね。ページは曲がってないようですし」
「いや、君が持って読んでいても構わない。……書斎も仕事関係のものは鍵をかけた引き出しにあるから、触れられるものに触れてかまわない。この家にあるものはすべて君のものでもあるのだから」

 説明ならこんなに簡単に出てくるのに、どうしてか普通の会話が思いつかないのはなぜだろう。
 わからず、つい眉を寄せていると、沙織が萎縮したように身を小さくする。

「別に怒ってる訳でもない」

 付け加える。そしてまた沈黙。

「そう……ですか……ッ」

 ためらいつつ、沙織が口にした途端口ではなく、沙織の帯――もとい、腹から変な音が聞こえ、また彼女が赤面する。

「すっ、すみません。私、本を読むのに夢中で食事を取り忘れていて」

 いいつつスマートフォンを取り、あ、とまた声を上げる。
 サイドボタンを押しても押しても真っ黒な画面のままなそれは、電源が切れている証拠だった。

(どおりで既読にならないわけだ)

 理解した途端、溜息が落ち、間の悪いことに守頭の腹も鳴る。

「……」
「……」

 どうやら、今宵の沙織と守頭は口より腹が雄弁なようだ。

「旦那様も御食事はまだで?」
「そういえば昨日の夜から食べた記憶がないな」

 途中でコーヒーを飲んだ記憶はあるが、パーティーは不愉快が先に立ち軽食にすら目が行かなかったのを思い出す。

「どうしましょうか。昨日私が作り置きしていたからおかずはありますが、御飯を炊くのも時間がかかりますし。……冷凍はあったと思うので」

 身を翻し、台所へ向かおうとする沙織の腕を咄嗟に掴んでいた。

「待て」
「あ、結構がっつり食べたいですか?」

 私はそうでも……などという沙織に違うと頭を振る。

「今、君が作り置きしていたと言わなかったか」
「言いましたよ? 作りましたよ? ちゃんと」

 なにを当たり前のことを言っているのだろうという風情で目を瞬かす沙織に、頭痛がしてきた。

「家政婦はどうした。彼女らが作ったんじゃないのか」
「家政婦なんていませんよ。なにを言われているのですか?」
「なんだって?」

 居ると思っていた家政婦がいないと聞かされ、考えるより先に声が出た。こんなことは初めてだ。

「どういうことだ」
「どういうことも、こういうことも。旦那様が解雇なさったんですよね?」

 子リスのように愛らしく首を傾げられ、くらくらと目眩がした。

「結婚して人妻になった以上は、家政を全部とりしきれと。旦那様がそう言われて解雇されたんですよね?」
「違う」

 まるで予想しない返答にまた咄嗟に声を上げた。

 沙織曰く、結婚して一ヶ月ぐらいごろに守頭がそう命じたとかで、家政婦が解雇され、それからは掃除、洗濯、家事の一切を沙織が担っていたのだとか。

(どういうことだ)

 混乱する。
 億を掛けた取引でも、社運を賭けた買収合戦でも、これほど焦ったことはない。

「君が大変そうなら人員を増やせと部下に命じたが、減らせとは言ってない」
「そうですか? でも三見さんが」

 沙織がすべてを言い終わる前に、誰がなんのために、そんな幼稚な嫌がらせを沙織にしたのかを理解した。

「……あの女」
「はい」
「君じゃない」

 素直に返事する沙織に頭痛を感じつつ、即座に否定すると沙織は奇妙な表情で首をひねる。

「ともかく、食事をしよう。お互い、食べないままでは身体によくない」

 言うなり、守頭はスーツのジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイともどもソファの背に放る。

「あ、私が用意します」
「いや、昨日も、その前も君が作ったんだろう。なら俺……じゃない、私が」

 うっかり地が出て俺といいかけ、急ぎ言い直すと沙織が目を丸くし、しばらく置いて吹き出した。

「別に、俺でも構いませんよ旦那様」

 ふふっと愛らしく笑いながら、沙織は緩やかな仕草で守頭の手を自分の腕から解いて、蝶の動きで身を翻す。

 初めて会ったときと同じ笑顔を向けられ、見蕩れ、逃れられ、守頭はどうしていいかわからず、台所に立ち白い割烹着を身につけだした沙織をただただまぶしげに見つめることしかできなかった。

< 26 / 52 >

この作品をシェア

pagetop