お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
◇◆◇
冷凍御飯と卵、それに葱が余っていたのでそれで雑炊をつくることにした。
(夜は遅いし、お腹があったまったほうが寝付きがいいですし)
その代わり、明日は朝、しっかりと作ろうと思いつつ、沸騰しただし汁の中に冷凍御飯を入れて掻き回し溶かす。
横では、シャツを肘までまくった守頭が予想外に器用な包丁さばきで葱を小口切りにしていく。
(変ですね)
離婚を言い出したのは昨日なのに、今日は並んで晩ごはんだか夜食だかわからないものを作っている。
仲がいいのか悪いのかわからない。
でも昨日より、少し夫婦らしくて、なんだか嬉しい。
(どうして嬉しいのか、わからないのですけれど)
きっと手伝って貰えるのが嬉しいに違いないと、自分を納得させる。
実家では、料理などは女子どもと使用人の仕事と豪語し、父は台所によりつきもしなかった。そのくせ、味にはあれこれうるさくて、おかずは常に五皿以上が当たり前。当然皿も下げる気がないという亭主関白ぶりを見ていた沙織には、頼んだ訳でもないのに、こうして当たり前に手伝ってくれる守頭が新鮮に見えた。
「料理、できるんですね」
独り言に終わるかもと思いつつ、そろそろと聞けば、相手はちょっと驚いた風に言葉を詰まらせ、だがすぐに答を返す。
「大学時代は一人暮らしだったからな。ある程度はできる。……仕事をし始めてからはその時間が勿体なくて人任せにしていたが」
「なにができるんですか」
「基本的なものだけだな。パスタ、うどん、ルウから作るカレーとシチュー、あとはオムレツの具が入ったスクランブルエッグ」
「それは、オムレツをひっくり返し損ねただけでは……?」
「そうともいう」
相変わらず淡々とした口調だが、沙織が言うと率直な答を返す守頭を見ているうちに、沙織はなんとなく理解した。
彼は話し下手か寡黙なだけで、決して無関心ではなかったのではないだろうか。
そんなことを考えているうちに卵と葱だけのシンプルな雑炊ができあがり、二人で鍋を囲んで頂きますを言う。
空腹だったからか、大した具も入ってない雑炊なのに、妙に美味しくて、漆塗りの匙を黙々と動かす。
そうやって腹が満たされ心が和んだ頃合いに、唐突に守頭が匙を置いて口を開いた。
「すまなかった」
「え」
「家政婦の件。……行き違いがあったようで苦労をさせた」
静かな、だからこそ心からだとわかる謝罪に、どうしてかドキリとしてしまう。
「言うほどの苦労はありませんでしたよ? 実家とちがって新しい家電は揃ってますし、料理や洗濯も、これから離婚して一人暮らしすると思えば修行のうちです」
いずれ自立してやらなければならないなら、今でも同じだと言外に含ませ笑うと、守頭は顔をしかめて黙ったまま、空になった土鍋と二人分の茶碗をシンクへ下げる。
「あ、私が……」
そう口にし立ち上がろうとしたが、視線で留められた。
洗い物が少ないからか、仕事同様に手際がいいからか、守頭の皿洗いはあっというまに終わってしまい、それから黙ったまま自室にしている客室へ消える。
怒らせてしまったのだろうか。
(離婚って単語を出したから? でもどうして?)
今日、初めて一緒に料理を作ったが、それまではまったく夫婦らしいことのない夫婦で、それが他人に戻ることになんの問題も無いはずなのに。
沙織がうなだれ考え込んでいると、消えたはずの足音が戻ってきた。
「こっちへ」
壊れ物に障るように、そっと手を取られソファに並んで座らされる。
どうしたのかと見れば、守頭の手には南フランスのプロヴァンス地方をテーマとする化粧品メーカーの、真新しいハンドクリームのアルミチューブが握られていた。
「手を貸してくれないか」
蓋を開けつつ守頭が言うのに従い、恐る恐る両手を差し出せば、彼は捧げ持つようにして沙織の手を自分の手の平に収め、見つめる。
それから、結婚を申し出た時と同じ丁寧さで薬指の結婚指輪を外し、そっと、そっと、手にとったハンドクリームを沙織の手に塗っていく。
「少しだが、荒れている」
「ごめんなさい」
手入れを怠っていたのを思い出し口に出すと、守頭は目を伏せがちにして頭を振る。
「怒ってない。責めてない。……ただ、申し訳ないだけだ」
手の甲に手を重ねて優しく撫でられる。
途端、むず痒いような、それでいてなにか誇らしさに似た高揚感も感じて、沙織は内心戸惑っていた。
恥ずかしいから手を引っ込めたいのと、このまま撫で労られていたいのと。どちらとも着かない気持ちの揺れが、そのまま心臓の鼓動を逸らせる。
大きな手、少し熱い体温、長く骨張った指。綺麗な筋が見える手の甲。
こんな風に男の人の手をしっかり見るのは初めてで、なんだかとても――色気を感じてしまう。
(変だわ。さっきから気持ちが落ち着かない)
捉えどころのない感情が少しずつ胸に広がっていくのに息を落とせば、沙織にハンドクリームを塗っていた手を止め守頭が視線を上げる。
切れ長の瞳に影を落とす長いまつげ、高い鼻梁。
すっきりとして秀でた額は今にも沙織の額にくっつきそうだ。
一途に自分を見つめる瞳は金茶で透き通っていて、まるで心の落ち着かなさを見透かされているようで恥ずかしい。なのに視線を外せない。
このまま顔を近づけば唇が触れてキスになる。その時自分はなにを思うだろう。
そんなことを考えていると、守頭が沙織の手に指を絡めて強く握り――。
「終わった」
「え」
「塗り終わった。……大切な手だ。大事にするといい」
沙織だけでなく、守頭にとっても大切だという風に握った手をゆっくり上下に揺らし、それから名残惜しげに力が抜かれ指が沙織の手から離れていく。
それにわずかな寂しさを覚えつつ顔を上げると、守頭がどこか物憂い溜息をついて目を閉ざし、だがすぐにまぶたを持ち上げる。
「三見がなにを言ったとしても、耳を貸す必要はない」
唐突に言われ、今度は沙織が目を瞬かす。
「大方、俺の恋人だっただのなんだの口にしただろうが、あの女が勝手に吹聴していることだ。……だが、沙織に苦労を掛けたことは度しがたい。今すぐは無理だが、近く手を打つ。家にも近寄らせない。それまでは辛抱してくれないか」
そんな遠慮しなくてもいいですよ。愛人なのでしょう? そう笑って流すつもりだった。
元々恋愛感情などなにひとつない、政略結婚といっても守頭にはさしたる利点もない、一億で買われた花嫁が本命の恋人に口を出す立場ではないのだから。
ただ、あの当たりの強さや嫌がらせだけなんとかして貰えればと思っていたが、離婚するのだから今となってはそれもどうでもいい。あと少しの我慢だ。
沙織はそう伝える気だったのに、どうしてか、守頭が三見のことを〝あの女〟と憎々しげに吐き捨てた時から、二人が無関係であるとわかってしまった。
強い疎ましさや嫌悪が、守頭の低い声に含まれていたのもある。だけどそれより、彼の一途な――真っ直ぐすぎる視線に反論がすべて霧散してしまった。
「大丈夫、です」
「本当にそうならいいが。我慢だけはするな。……俺になにか言う対等の権利を持つのは妻の沙織だけだ」
率直すぎて強すぎる台詞に、なぜか強く胸が痛む。
こんな風に考えていたなんて、知りたくなかった。離婚すると決めた後になってから。
胸の痛みをごまかしたくて、沙織はあえて明るい笑顔をつくりまるで違うことを口にする。
「対等の権利があるなら、一つお願いをしていいですか?」
「なんなりと」
ふと表情を緩め、まぶしいものを見るように守頭が視線を和らげる。
なので、反対されるのを承知で沙織は離婚への第一歩を口にした。
――「私、働きたいです」と。
冷凍御飯と卵、それに葱が余っていたのでそれで雑炊をつくることにした。
(夜は遅いし、お腹があったまったほうが寝付きがいいですし)
その代わり、明日は朝、しっかりと作ろうと思いつつ、沸騰しただし汁の中に冷凍御飯を入れて掻き回し溶かす。
横では、シャツを肘までまくった守頭が予想外に器用な包丁さばきで葱を小口切りにしていく。
(変ですね)
離婚を言い出したのは昨日なのに、今日は並んで晩ごはんだか夜食だかわからないものを作っている。
仲がいいのか悪いのかわからない。
でも昨日より、少し夫婦らしくて、なんだか嬉しい。
(どうして嬉しいのか、わからないのですけれど)
きっと手伝って貰えるのが嬉しいに違いないと、自分を納得させる。
実家では、料理などは女子どもと使用人の仕事と豪語し、父は台所によりつきもしなかった。そのくせ、味にはあれこれうるさくて、おかずは常に五皿以上が当たり前。当然皿も下げる気がないという亭主関白ぶりを見ていた沙織には、頼んだ訳でもないのに、こうして当たり前に手伝ってくれる守頭が新鮮に見えた。
「料理、できるんですね」
独り言に終わるかもと思いつつ、そろそろと聞けば、相手はちょっと驚いた風に言葉を詰まらせ、だがすぐに答を返す。
「大学時代は一人暮らしだったからな。ある程度はできる。……仕事をし始めてからはその時間が勿体なくて人任せにしていたが」
「なにができるんですか」
「基本的なものだけだな。パスタ、うどん、ルウから作るカレーとシチュー、あとはオムレツの具が入ったスクランブルエッグ」
「それは、オムレツをひっくり返し損ねただけでは……?」
「そうともいう」
相変わらず淡々とした口調だが、沙織が言うと率直な答を返す守頭を見ているうちに、沙織はなんとなく理解した。
彼は話し下手か寡黙なだけで、決して無関心ではなかったのではないだろうか。
そんなことを考えているうちに卵と葱だけのシンプルな雑炊ができあがり、二人で鍋を囲んで頂きますを言う。
空腹だったからか、大した具も入ってない雑炊なのに、妙に美味しくて、漆塗りの匙を黙々と動かす。
そうやって腹が満たされ心が和んだ頃合いに、唐突に守頭が匙を置いて口を開いた。
「すまなかった」
「え」
「家政婦の件。……行き違いがあったようで苦労をさせた」
静かな、だからこそ心からだとわかる謝罪に、どうしてかドキリとしてしまう。
「言うほどの苦労はありませんでしたよ? 実家とちがって新しい家電は揃ってますし、料理や洗濯も、これから離婚して一人暮らしすると思えば修行のうちです」
いずれ自立してやらなければならないなら、今でも同じだと言外に含ませ笑うと、守頭は顔をしかめて黙ったまま、空になった土鍋と二人分の茶碗をシンクへ下げる。
「あ、私が……」
そう口にし立ち上がろうとしたが、視線で留められた。
洗い物が少ないからか、仕事同様に手際がいいからか、守頭の皿洗いはあっというまに終わってしまい、それから黙ったまま自室にしている客室へ消える。
怒らせてしまったのだろうか。
(離婚って単語を出したから? でもどうして?)
今日、初めて一緒に料理を作ったが、それまではまったく夫婦らしいことのない夫婦で、それが他人に戻ることになんの問題も無いはずなのに。
沙織がうなだれ考え込んでいると、消えたはずの足音が戻ってきた。
「こっちへ」
壊れ物に障るように、そっと手を取られソファに並んで座らされる。
どうしたのかと見れば、守頭の手には南フランスのプロヴァンス地方をテーマとする化粧品メーカーの、真新しいハンドクリームのアルミチューブが握られていた。
「手を貸してくれないか」
蓋を開けつつ守頭が言うのに従い、恐る恐る両手を差し出せば、彼は捧げ持つようにして沙織の手を自分の手の平に収め、見つめる。
それから、結婚を申し出た時と同じ丁寧さで薬指の結婚指輪を外し、そっと、そっと、手にとったハンドクリームを沙織の手に塗っていく。
「少しだが、荒れている」
「ごめんなさい」
手入れを怠っていたのを思い出し口に出すと、守頭は目を伏せがちにして頭を振る。
「怒ってない。責めてない。……ただ、申し訳ないだけだ」
手の甲に手を重ねて優しく撫でられる。
途端、むず痒いような、それでいてなにか誇らしさに似た高揚感も感じて、沙織は内心戸惑っていた。
恥ずかしいから手を引っ込めたいのと、このまま撫で労られていたいのと。どちらとも着かない気持ちの揺れが、そのまま心臓の鼓動を逸らせる。
大きな手、少し熱い体温、長く骨張った指。綺麗な筋が見える手の甲。
こんな風に男の人の手をしっかり見るのは初めてで、なんだかとても――色気を感じてしまう。
(変だわ。さっきから気持ちが落ち着かない)
捉えどころのない感情が少しずつ胸に広がっていくのに息を落とせば、沙織にハンドクリームを塗っていた手を止め守頭が視線を上げる。
切れ長の瞳に影を落とす長いまつげ、高い鼻梁。
すっきりとして秀でた額は今にも沙織の額にくっつきそうだ。
一途に自分を見つめる瞳は金茶で透き通っていて、まるで心の落ち着かなさを見透かされているようで恥ずかしい。なのに視線を外せない。
このまま顔を近づけば唇が触れてキスになる。その時自分はなにを思うだろう。
そんなことを考えていると、守頭が沙織の手に指を絡めて強く握り――。
「終わった」
「え」
「塗り終わった。……大切な手だ。大事にするといい」
沙織だけでなく、守頭にとっても大切だという風に握った手をゆっくり上下に揺らし、それから名残惜しげに力が抜かれ指が沙織の手から離れていく。
それにわずかな寂しさを覚えつつ顔を上げると、守頭がどこか物憂い溜息をついて目を閉ざし、だがすぐにまぶたを持ち上げる。
「三見がなにを言ったとしても、耳を貸す必要はない」
唐突に言われ、今度は沙織が目を瞬かす。
「大方、俺の恋人だっただのなんだの口にしただろうが、あの女が勝手に吹聴していることだ。……だが、沙織に苦労を掛けたことは度しがたい。今すぐは無理だが、近く手を打つ。家にも近寄らせない。それまでは辛抱してくれないか」
そんな遠慮しなくてもいいですよ。愛人なのでしょう? そう笑って流すつもりだった。
元々恋愛感情などなにひとつない、政略結婚といっても守頭にはさしたる利点もない、一億で買われた花嫁が本命の恋人に口を出す立場ではないのだから。
ただ、あの当たりの強さや嫌がらせだけなんとかして貰えればと思っていたが、離婚するのだから今となってはそれもどうでもいい。あと少しの我慢だ。
沙織はそう伝える気だったのに、どうしてか、守頭が三見のことを〝あの女〟と憎々しげに吐き捨てた時から、二人が無関係であるとわかってしまった。
強い疎ましさや嫌悪が、守頭の低い声に含まれていたのもある。だけどそれより、彼の一途な――真っ直ぐすぎる視線に反論がすべて霧散してしまった。
「大丈夫、です」
「本当にそうならいいが。我慢だけはするな。……俺になにか言う対等の権利を持つのは妻の沙織だけだ」
率直すぎて強すぎる台詞に、なぜか強く胸が痛む。
こんな風に考えていたなんて、知りたくなかった。離婚すると決めた後になってから。
胸の痛みをごまかしたくて、沙織はあえて明るい笑顔をつくりまるで違うことを口にする。
「対等の権利があるなら、一つお願いをしていいですか?」
「なんなりと」
ふと表情を緩め、まぶしいものを見るように守頭が視線を和らげる。
なので、反対されるのを承知で沙織は離婚への第一歩を口にした。
――「私、働きたいです」と。