お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
(本当の本当に、付いて来るとは)
今まさに、搭乗口がロックされ、ボーディングブリッジが切り離された飛行機の中で沙織はちらりと隣に座る守頭を盗み見る。
――逸樹と二人でフランスに行かせるのは嫌だ。だが仕事の出張を断れないのもわかる。なら、俺が沙織に付いていけばいい。
端から聞けば、なにを馬鹿なと笑ってしまいそうな提案をされ、沙織はキスの余韻も忘れ目を瞬かせたことを思い出す。
守頭曰く。
仕事などパソコンとインターネットがあればどこでもできるし、十日やそこら社長の守頭が不在になっただけでどうにかなるような会社運営はしていない。
たしかに、スケジュールの調整を余儀なくされる秘書の初瀨川は大変だろうが、それだって給料のうちだ。
それに、別に沙織の会社の仕事に加わらせろなどとは言っていない。
休暇を取って夫婦で旅行に行ったフランスで、たまたま逸樹と会い、たまたま仕事をする部下がインフルエンザで来られなくなって困っていた処に出くわし、その時間だけ手を貸す。という体にすればいい。
そうすれば、沙織は仕事の時間以外は自由で守頭といられるし、逸樹の困りごとも解決できる。その上、出張費も浮く。その上、守頭は幼少期に六年パリに住んでいたこともあり、フランス語もほぼネイティブで通訳いらず。
WIN・WIN――どちらにとっても利があって、文句はでない。
そんな風に話をまとめられてしまい、呆気にとられているうちに、伝手を辿って逸樹の連絡先を手にいれて、沙織がそれはと口にするより早く相手を電話口に引っ張り出し、理路整然とした強引さで話をまとめきってしまった。
判断も行動も早すぎる。
いや、だから優秀な投資家なのか。
呆気にとられつつ、そんなことを考えていると、罵声が続く逸樹の電話を無情にも切った守頭は、これ以上ないほど楽しげな調子で言った。
――会社を設立して以来、まともな長期休暇も、妻との旅行も初めてだ。
楽しみだな。と沙織の頭を撫で回した。
駄目押しに、出張ではビジネスクラスで行くはずだったところを、あっさりファーストクラスに変更してチケットを抑え、泊まるホテルのグレードも最高級――フランスでも数少ない〝パラス〟の名を冠する――ホテルのスイートを抑える徹底ぶりだ。
これで仕事で行くのだと行っても誰も信じてはくれそうにない。というか、どうみても新婚旅行だ。
最も、守頭に言わせれば、これは単なる夫婦旅行で、新婚旅行は一切邪魔が入らないよう、仕事も持ち込まず、改めて沙織が行きたいところに連れていく。と宣言された。
(初めての旅行、しかも海外、その上にこの贅沢)
いいのだろうかと目が泳ぐのも仕方がない。
沙織と守頭が乗る飛行機はフランスの航空会社のもので、「ラ・プルミエール」と呼ばれるファーストクラス席は、前方客室に四室のみというレアさ。
それを全部借り切っているので、もはや飛行機ではなくホテルの客室で過ごしているような感覚だ。
客室乗務員は四人いるが、そのすべてが沙織達――守頭夫婦の給仕に努めることになる。
そういえば、この人は沙織の婚約者の地位を一億でぽんと購入するような人だった。この程度の手配はどうということもないのだろう。
にしても空間が広い。
飛行機といえば狭いものと、旅行好きの友人から長時間はつらい。狭い。と聞かされていたが、ここはまるで別世界だ。
ツイードのような柔らかいファブリックをメインとした座席に、各席をしきるパーティションは重厚感のある木目調。
両サイドの席などは窓四つを占有するスペースを取ってあり、シートの前に備え付けられているオットマンを椅子として使えば、二人で空を見ながら食事や打合せもできるという。
全体的なインテリアはモノトーンで落ち着いているが、引き出しの内側や膝掛けは深紅でアクセントをつけているのが、お洒落の国フランスの会社らしい。
乗ったばかりの時こそ、初飛行機に加えサロンのように豪華なファーストクラスに緊張したが、それらのサービスを当たり前のように受け入れ、平然としている守頭がいちいち丁寧にエスコートしてくれる上、ウェルカムドリンクのシャンパンや、チョコレートと、ひな鳥を世話する親鳥の甲斐甲斐しさで世話を焼く上、離陸の時は指を絡めて手を繋いでいてくれたので、鉄の塊が空を飛ぶ怖さより、繋いだ手の熱と絡まる指の親密さがもたらすドキドキのほうが強かったほどだ。
出される機内食はいわずもがなで、お決まりのフィッシュオアチキン? などと聞かれることもなく、最高級のフレンチが白磁の皿と銀食器で今日されて、出てくるワインは一本何万円ですかという代物。
沙織がとくに気に入ったのはスペシャリテの一皿で、トリュフの薄切りを重ねて作った円形型の中に、熟成フォアグラのテリーヌと蕪のムースがはいったもので、こってりとしているのにしつこくなくて、フォアグラと蕪のトロトロ感がなんともたまらなかった。
デザートはトロペジエンヌというシュークリームに似たお菓子とショコラで、それもすごく美味しくて、パリについたらお店で探してもう一度食べようと心に決めた。
そんな風にして空の旅を楽しんで十四時間。
ぐっすりと眠っていたところを守頭に優しく揺り起こされて、そろそろ着陸だからと教えられるまで、一度だって起きなかった。
空港についてからは驚きの連続で、見えるものすべてが珍しく、まるで幼稚園児みたいにあれはなにか、これはなんだろうと視線を向ければ、いつもより穏やかな微笑を浮かべた守頭が、心得たように説明してくれる。
ホテルまでの移動だってなにひとつ不安はなくて、歌うような流暢さで現地の人とやりとりした守頭が、あっというまに車を手配してくれてノンストップで首都までいけた。
車窓から外を眺めれば、遠くに見える教会の尖塔や、緑の庭園、蔦の生えた壁の向こうに見えるのは、ファンタジーの映画に出てきそうな見事なお屋敷。
行き交う女性達は老いも若きも皆お洒落で、腕に下げている藤製のマルシェ籠の取っ手に結んだハンカチが小粋で――ともかく、フランス! という空気で一杯だ。
見るものすべてが新鮮でワクワクする。こんな世界があったのかと思う。
それになにより、隣を見れば守頭がいて、それがとても安心できる。
一人だったらぜったいこうは行かなかった。逸樹と一緒でも多分、大丈夫かなとか、いけるかなとか、そんな心配にかられた気がする。
だけどどうしてか、守頭がいる。それだけで大丈夫だと思えるのが不思議だ。
(夫婦だから?)
ふと頭に浮かんだ考えに、沙織はドキリとしてしまう。
今、自分はごく当たり前に守頭のことを〝夫〟だと思った。
だけどよくよく考えれば、沙織は彼に離婚を申し出ていて、いつまでもこの関係が続くとは限らない。
一億を返す目処さえ立てば、離婚するとそう決めていなかっただろうか。
(だけどどうして?)
――どうして自分は離婚したいと思ったのだろう。
それを思い出そうとした時、車が停止しホテルに着いたと守頭が告げる。
「沙織?」
「あ、大丈夫。……ちょっと感動しすぎて、はしゃぎすぎたかもしれません」
ごまかすように苦笑すれば、守頭は労るように沙織の頬を撫でつつ上向かせる。
「少し顔色がよくないな。……多分、旅疲れと時差のせいだろう。部屋に入ったらすこしゆっくり休むがいい」
「はい、そうします」
素直にうなずきつつ、そうか、そのうちこの頬に触れる手の温もりも、なくなってしまうのだなと、沙織は密かに寂しく思った。
今まさに、搭乗口がロックされ、ボーディングブリッジが切り離された飛行機の中で沙織はちらりと隣に座る守頭を盗み見る。
――逸樹と二人でフランスに行かせるのは嫌だ。だが仕事の出張を断れないのもわかる。なら、俺が沙織に付いていけばいい。
端から聞けば、なにを馬鹿なと笑ってしまいそうな提案をされ、沙織はキスの余韻も忘れ目を瞬かせたことを思い出す。
守頭曰く。
仕事などパソコンとインターネットがあればどこでもできるし、十日やそこら社長の守頭が不在になっただけでどうにかなるような会社運営はしていない。
たしかに、スケジュールの調整を余儀なくされる秘書の初瀨川は大変だろうが、それだって給料のうちだ。
それに、別に沙織の会社の仕事に加わらせろなどとは言っていない。
休暇を取って夫婦で旅行に行ったフランスで、たまたま逸樹と会い、たまたま仕事をする部下がインフルエンザで来られなくなって困っていた処に出くわし、その時間だけ手を貸す。という体にすればいい。
そうすれば、沙織は仕事の時間以外は自由で守頭といられるし、逸樹の困りごとも解決できる。その上、出張費も浮く。その上、守頭は幼少期に六年パリに住んでいたこともあり、フランス語もほぼネイティブで通訳いらず。
WIN・WIN――どちらにとっても利があって、文句はでない。
そんな風に話をまとめられてしまい、呆気にとられているうちに、伝手を辿って逸樹の連絡先を手にいれて、沙織がそれはと口にするより早く相手を電話口に引っ張り出し、理路整然とした強引さで話をまとめきってしまった。
判断も行動も早すぎる。
いや、だから優秀な投資家なのか。
呆気にとられつつ、そんなことを考えていると、罵声が続く逸樹の電話を無情にも切った守頭は、これ以上ないほど楽しげな調子で言った。
――会社を設立して以来、まともな長期休暇も、妻との旅行も初めてだ。
楽しみだな。と沙織の頭を撫で回した。
駄目押しに、出張ではビジネスクラスで行くはずだったところを、あっさりファーストクラスに変更してチケットを抑え、泊まるホテルのグレードも最高級――フランスでも数少ない〝パラス〟の名を冠する――ホテルのスイートを抑える徹底ぶりだ。
これで仕事で行くのだと行っても誰も信じてはくれそうにない。というか、どうみても新婚旅行だ。
最も、守頭に言わせれば、これは単なる夫婦旅行で、新婚旅行は一切邪魔が入らないよう、仕事も持ち込まず、改めて沙織が行きたいところに連れていく。と宣言された。
(初めての旅行、しかも海外、その上にこの贅沢)
いいのだろうかと目が泳ぐのも仕方がない。
沙織と守頭が乗る飛行機はフランスの航空会社のもので、「ラ・プルミエール」と呼ばれるファーストクラス席は、前方客室に四室のみというレアさ。
それを全部借り切っているので、もはや飛行機ではなくホテルの客室で過ごしているような感覚だ。
客室乗務員は四人いるが、そのすべてが沙織達――守頭夫婦の給仕に努めることになる。
そういえば、この人は沙織の婚約者の地位を一億でぽんと購入するような人だった。この程度の手配はどうということもないのだろう。
にしても空間が広い。
飛行機といえば狭いものと、旅行好きの友人から長時間はつらい。狭い。と聞かされていたが、ここはまるで別世界だ。
ツイードのような柔らかいファブリックをメインとした座席に、各席をしきるパーティションは重厚感のある木目調。
両サイドの席などは窓四つを占有するスペースを取ってあり、シートの前に備え付けられているオットマンを椅子として使えば、二人で空を見ながら食事や打合せもできるという。
全体的なインテリアはモノトーンで落ち着いているが、引き出しの内側や膝掛けは深紅でアクセントをつけているのが、お洒落の国フランスの会社らしい。
乗ったばかりの時こそ、初飛行機に加えサロンのように豪華なファーストクラスに緊張したが、それらのサービスを当たり前のように受け入れ、平然としている守頭がいちいち丁寧にエスコートしてくれる上、ウェルカムドリンクのシャンパンや、チョコレートと、ひな鳥を世話する親鳥の甲斐甲斐しさで世話を焼く上、離陸の時は指を絡めて手を繋いでいてくれたので、鉄の塊が空を飛ぶ怖さより、繋いだ手の熱と絡まる指の親密さがもたらすドキドキのほうが強かったほどだ。
出される機内食はいわずもがなで、お決まりのフィッシュオアチキン? などと聞かれることもなく、最高級のフレンチが白磁の皿と銀食器で今日されて、出てくるワインは一本何万円ですかという代物。
沙織がとくに気に入ったのはスペシャリテの一皿で、トリュフの薄切りを重ねて作った円形型の中に、熟成フォアグラのテリーヌと蕪のムースがはいったもので、こってりとしているのにしつこくなくて、フォアグラと蕪のトロトロ感がなんともたまらなかった。
デザートはトロペジエンヌというシュークリームに似たお菓子とショコラで、それもすごく美味しくて、パリについたらお店で探してもう一度食べようと心に決めた。
そんな風にして空の旅を楽しんで十四時間。
ぐっすりと眠っていたところを守頭に優しく揺り起こされて、そろそろ着陸だからと教えられるまで、一度だって起きなかった。
空港についてからは驚きの連続で、見えるものすべてが珍しく、まるで幼稚園児みたいにあれはなにか、これはなんだろうと視線を向ければ、いつもより穏やかな微笑を浮かべた守頭が、心得たように説明してくれる。
ホテルまでの移動だってなにひとつ不安はなくて、歌うような流暢さで現地の人とやりとりした守頭が、あっというまに車を手配してくれてノンストップで首都までいけた。
車窓から外を眺めれば、遠くに見える教会の尖塔や、緑の庭園、蔦の生えた壁の向こうに見えるのは、ファンタジーの映画に出てきそうな見事なお屋敷。
行き交う女性達は老いも若きも皆お洒落で、腕に下げている藤製のマルシェ籠の取っ手に結んだハンカチが小粋で――ともかく、フランス! という空気で一杯だ。
見るものすべてが新鮮でワクワクする。こんな世界があったのかと思う。
それになにより、隣を見れば守頭がいて、それがとても安心できる。
一人だったらぜったいこうは行かなかった。逸樹と一緒でも多分、大丈夫かなとか、いけるかなとか、そんな心配にかられた気がする。
だけどどうしてか、守頭がいる。それだけで大丈夫だと思えるのが不思議だ。
(夫婦だから?)
ふと頭に浮かんだ考えに、沙織はドキリとしてしまう。
今、自分はごく当たり前に守頭のことを〝夫〟だと思った。
だけどよくよく考えれば、沙織は彼に離婚を申し出ていて、いつまでもこの関係が続くとは限らない。
一億を返す目処さえ立てば、離婚するとそう決めていなかっただろうか。
(だけどどうして?)
――どうして自分は離婚したいと思ったのだろう。
それを思い出そうとした時、車が停止しホテルに着いたと守頭が告げる。
「沙織?」
「あ、大丈夫。……ちょっと感動しすぎて、はしゃぎすぎたかもしれません」
ごまかすように苦笑すれば、守頭は労るように沙織の頬を撫でつつ上向かせる。
「少し顔色がよくないな。……多分、旅疲れと時差のせいだろう。部屋に入ったらすこしゆっくり休むがいい」
「はい、そうします」
素直にうなずきつつ、そうか、そのうちこの頬に触れる手の温もりも、なくなってしまうのだなと、沙織は密かに寂しく思った。