お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
 到着したのはパリの中心地、セーヌ川北岸にある第一区だった。

 美術館としても有名なルーヴル宮殿があることから、ルーヴル区という別名でも呼ばれる第一区は、中心部だけあって建物も歴史あるまま現存し、そのうちのいくつかは名だたるホテルとして利用されている。

 沙織達が部屋を取ったのはパリ最古にして最高級のパラスの称号を冠するホテルで、守頭のエスコートで車を降りた沙織は、まずその外観に息を呑む。

 歴史の教科書にそのまま載っていそうな、重厚かつ壮麗な建物だ。
 高さは首が痛くなるほど見上げなければ屋根が見えないほどなのに、階数は四つほどしかないように見える。おそらく、それだけ贅沢に空間を取っているのだろう。

 チェックインし、案内された部屋に入ると予想通りに天井が高く、そこから豪華なクリスタルのシャンデリアが下がっている。

 しかも建物が古いのに部屋はまったく暗くなく、いくつもある大きな窓から冬らしい透き通った日差しがアンティークな家具をきらめかせている。

 壁は真っ白で、そこにオークの腰板が嵌まっていて、所々ブロンズやシルバーの枠で区切られているのがとてもスッキリしていてお洒落だ。
 バスルームは床も壁も天井も白と黒が混じった総大理石仕様で、円形のドームの下に丸い浴槽があるのが、噴水みたいでかわいらしい。もっとも、噴水というには広く深さもあり、蛇口は黄金のように磨き上げられたブロンズと、豪華だけど派手すぎない、歴史ある貴族の城という上品さで、パラス――宮殿の名を冠するだけあるなと変なところで感心してしまう。

 だけど沙織が一番感動したのは、両開きのガラスドアから抜けた先にあるテラスで、眼下にはチュイルリー公園が、右手側の遠くにエッフェル塔、そして左手側のもう、すぐ目の前にルーブル美術館があるという、なんとも贅沢な眺めで旅疲れなど吹き飛んでしまう。

 興奮に頬を紅潮させながら、バルコニーからパリの空気を一杯吸い込んでいると、いつのまにか背後にきていた守頭がドアの縁によりかかりながらクスクスと笑っていた。

「ルームツアーはご満足できましたでしょうか、奥様」

 気取った口調で言われ、つい吹き出し笑った沙織は、そのまま振り返って守頭に対し女王様のような動きで手を差し伸べた。

「ええ、満足しましてよ」
「それはなにより」

 差し出された手を取り、部屋の中までエスコートするつもりなのかと思っていたら、たちまち両手で包まれて、まるで騎士が女王にするような恭しさで手の甲にキスをされ、驚いた。

 旅の高揚感とは違うドキドキが胸を高鳴らせ、沙織の頬はますます紅潮する。

 そっと唇を触れさせているだけなのに、伏せがちの眼差しから見える瞳はどこか切なげで、美しく、沙織は冗談を言い合ったことも忘れ、ぼうぅっとしてしまう。

 時間が止まったように、あるいは絵画となってしまったように、二人は動くどころか言葉もなく、沙織にいたっては呼吸すら忘れがちでいたが、遠くの教会から鐘の音が聞こえたのを合図に、守頭が唇を手の甲から離し、流れる動きで沙織を引き寄せ腰を抱いてエスコートする。

「……さあ、入ろう。今日は暖かいが外は寒い。それに今は大丈夫でも少し眠らないと明日が辛いぞ。仕事だろう」

 そうだった。明日は一日仕事関係の予定で埋まっているのだ。
 まだ明るいけど、疲れを取るために夕食まで寝ていたほうがいい。
 思いつつベッドへ目を向け、沙織は目を見張る。

 そういえば、この部屋には一つしかベッドがない。

 広い広い室内に、でんと鎮座するキングサイズの天蓋付きベッドに沙織が足を止めていると、怪訝な表情で沙織を見た守頭が、ぷっと小さく吹き出した。

「安心しろ。この部屋のベッドは沙織が使えばいい」
「で、でも」

 他にベッドはない。ソファだって猫足の長椅子があるだけで、歴史はあるけれど、寝るには剥いてなさそうだ。
 だから、一体どこで守頭は寝るのかと困惑してしまう。

 かといって、一緒にという訳にもいかず、じゃあ小柄な自分があの長椅子で寝ますといいかけた時、守頭が部屋の隅にある目立たないドアを指で示す。

「隣にあるデラックスルームをコネクティングしている。俺はそっちのベッドを使うから、沙織は安心して寝ればいい」

 この部屋より格も広さもやや下がるが、似たような部屋があり、顧客の要望に応じて部屋同士をコネクティング――一つとして使えるようにできるらしい。

 なんでも王族や大統領などが宿泊した際、使用人やボディガードが待機するように繋げたり、家族で使うために繋げたりするため、そんな設計になっているのだとか。

 説明され、ホテルで一番いい部屋を借りるだけでなく、その隣まで借りるなんて。ますます守頭の財力に驚いてしまう。

 ――そんなに旦那さんが稼げるなら、働かなくてもいいでしょうに。
 会社でなんどか言われた言葉が頭を過る。
 そういえば、守頭はどうして自分が働くことを許してくれたのか。そして、こうまでして付き合ってくれるのか。

 聞いていいのか、それとも聞かないほうがいいのかと迷っていれば、それを違う意味に勘違いしたのか、あるいはわざとか、守頭が沙織の耳元に唇を寄せ囁いた。

「それとも、独り寝は寂しいなら一緒に寝てもいいが。夫婦として」

 途端、考えていたことが頭から吹っ飛び、代わりに顔が熱く火照る。
 もう顔だけでなくうなじや耳まで真っ赤に違いない。

 これでは暖房もいらなさそうだ。というほど赤くなりながら、沙織は羞恥に唇をわななかす。

「あ、あ、あの……」
「冗談だ。……俺は、沙織が望むまでそういうことはしない」

 変にきっぱりと言われ、安心するような、それでいて寂しいような気持ちでいると、さあ、と促されベッドに座らせられる。

「少しゆっくり眠るがいい。俺は隣の部屋で仕事をしているから、何かしたくなったり、飲み物や食べ物が欲しくなったらいつでもノックすればいい。すぐルームサービスを手配する」

 いいつつ、額にそっと唇を触れさせると、今までの甘い雰囲気が嘘のように守頭は隣の部屋へと消えていった。

(なんで、こんなにドキドキしているのでしょう)

 守頭は夫で妻である沙織をエスコートするのは当たり前だし、旅先だから彼も少し浮かれてリップサービスで甘い言葉をかけたり、からかったりしているだけなのかもしれない。

 だけどおかしいほどに胸が早鐘をうっていて、今も彼が触れたり、キスしたりした場所が熱をもっていて心地よい疼きを伝えてくる。

 ――どうしよう。

 頭の中が守頭のことで一杯だ。彼がしてくれたことやかけてくれた言葉がぐるぐるとめまぐるしく記憶を騒がす。

 パリについてからだけじゃなく、日本にいる時に鍋をつついたことや、一緒に料理したこと、ビジネスについての質問を沙織がしたとき、わかりやすく、すごく深いところまで教えてくれたことまで。

 彼に、惹かれているのかもしれない。

(離婚するのに?)

 どうしたというのだ、自分は。
 守頭と離婚するつもりじゃなかったのか。自由を得るため。
 なのに今や、離れがたいほど彼に惹かれだしている。

 側にいてほしいと思うし、側にいたいと思う。
 一緒にいつまでも笑っていたいし、このままの暮らしを続けたいとさえ考えだしている。

 暮らしぶりがいいからではない、彼がかっこいいからだけでもない。
 わからないがとにかく、もっと彼を知りたいという欲求だけは確かで。

「私、どうして、離婚したいと思ったのでしょう……」

 一人きりになった部屋で呟くが、確かに、確固として沙織の中にあった離婚の理由は、いまや霧の向こうで溶けてしまったように見えなくなっていた――。
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