お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
 わぁん、とエレベーターホールに響く大きな声が背後から掛けられて、沙織は恐怖と困惑から現実へと引き戻される。

「な、なんだお前は……、ああっ!」

 ぐいっと、沙織まで後ろによろめく勢いで男が背後から引っ張られ、その勢いのまま床へとうち捨てられる。

 どさりと、重いものが落ちる音がして振り向けば、先ほどまで沙織を部屋へ連れ込もうとしていた男が尻餅をついて顔をしかめていた。

 一体だれが、と顔を上げた瞬間、沙織は目をみはっていた。
 とても美しい男性がいた。
 男性に美しいとつけるのはおかしいかもしれないが、第一印象はそうだった。
 彫りの深い目鼻立ちに加え、女性より直線的かつ凜々しい輪郭。
 眉は細く柳の葉のようだったが、それが男性の鋭い目元をより一層涼やかにみせていて、なんとも色っぽい。

 一つ一つのパーツがはっきりとしているのに、輪郭の中に程よく収まっているからか、まるで陶磁器人形のように冷たく麗しい容貌となっている。
 なにより淡く金茶色の光を放つ髪が、男の日本人離れした容姿に華をそえていて、まるで彼にだけ輝いているようにも見えた。

 ――こんなに見目が麗しい男性は初めて見た。

 テレビの向こう側にいる芸能人やアイドルとは違う、もっとストイックで触れがたい、そう、ギリシャ彫刻や人形のように無機質さといった、一種独特の雰囲気を纏う人物など、沙織の身の回りにいたことはなかった。

 年の頃は三十歳ほどだろうか。今日、話をした見合い相手よりいくばくか若く見えたが、凍えるほど冷たい眼差しのせいで彼の年齢を分かりがたくしている。

 着ている服は床に尻餅をついている男より遙かに上質で、鈍い光沢を持つグレーの三つ揃いスーツは最も皺の出にくい織りであるバラシア仕立て、身体の線を綺麗にひきたてて無駄のない形は明らかに職人が手縫いしたビスポーク。
 ボタンだって白蝶貝で、手首からちらりと除く時計も、イギリススタイルのスーツに合わせてか高級ブランドアナログに皮ベルトとクラッシックに揃え、すこぶる趣味が良い。

 靴は言うまでもなく磨き上げられており、格式のある内羽根式プレーントゥ。

 頭から爪先まで非の打ち所がない眉目秀麗な男は、床に尻餅をついた沙織の見合い相手を一瞥しつつ襟を正し、それから沙織に手を差し伸べてきた。

「大丈夫ですか、沙織さん」
「え、ええ。……あの、ありがとうございます」

 少し骨張った手の甲や指が、綺麗に目の前にかざされて、沙織はつい心をときめかす。
 なんて素敵な人なのかしらと、恋などまるで興味もないのに見蕩れてしまう。

「沙織さん?」
「あ、大丈夫です。ちょっと、驚いてしまって」

 まだドキドキが止まらないのは、危機を助けて貰ったからだろうか。この男性に気を惹かれたことに戸惑っているのか、自分でもわからない。

 けれど相手に手を差し伸べさせたままでいるのは失礼と気づき、沙織はちょんと指先を男性の手の平に載せ、そこで相手が自分を、お嬢さんとか貴女とか呼ばずに、〝沙織さん〟と名前を呼んでいることに気が付いた。

(こんな方、知り合いにいたかしら)

 記憶を巡らせるけれど、まるで覚えがない。
 むしろこれほど容姿と威風に優れた人物であれば、女性であれ男性であれ記憶に残りそうなものなのに。
 だとしたら、父か母の知り合いだろうかと首をひねった時だ。

 「だ、誰だお前は! なんで僕の邪魔をする!」

 怯えを怒りで覆い隠した感情的な声が、沙織と男性の対話を邪魔する。
 途端、男性はさりげない仕草で沙織の肩に手を回し支えながら、心底冷たく突き放すように言った。

「私は守頭瑛士だ。なんで邪魔をするだと? 見合いを断るのを知って、その前に沙織さんによからぬことをしようと企んでいたお前に聞かれても、困るな」

 え、と小さく声が出る。と、安心させるように沙織の後ろから回された男性――守頭の手が軽く二度沙織の方を叩く。
 不思議だ。
 お見合い相手である男から同じことをされた時は、悪寒と嫌悪しかなかったのに、守頭からされてもなんら不快感がない。
 どころか安堵さえ覚えてしまって、緊張していた手足からわずかに力が抜ける。

(助けていただいたから、かしら)

 不思議に思っていると、見合い相手であった男が口をわななかせ、それから吐き捨てた。

「ど、どうしてそれを」
「どうしてもなにも。昨晩は悪い仲間とお喋りが過ぎたな。……見合い相手の親と条件が折り合わず断ることになりそうだが、その前に味見をしてやろう。どうせ相手は金目当てで強引に迫れば断れない。と。箱入りお嬢様の味を確かめてきたらまた話してやるとも言ったそうだな。下種が」

 ここにきて、沙織は自分の置かれた状況を薄々に理解した。
 お見合いはしたが、相手が融資の額の大きさに怯んだのか、それとも、もとから義理だけでお見合いしていたのか。

 ともかく縁談を断る腹づもりだったのに、それを黙っておき、沙織をいいように扱い弄ぼうとしたのだと。
 見合い当日は歌舞伎の場であり、互いの席に距離もあったためになにもできなかったが、それを逆手にとって、二人きりで話をして人となりをしりたいなどと、いかにも乗り気であるように見せかけ、騙そうとしていたのだと。
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