お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
 予想外だった。他に競争相手がいるとは。

(油断しすぎました)

 あわてて札を上げれば、進行役が五千二百ユーロと声も出ない沙織の代わりに金額を読み上げる。 このオークションではステップが百ユーロに設定されているので、手を上げれば即金額が加算される。

 これでなんとか、と思うも、沙織の焦りや思いとは裏腹に老婦人は淡々と手を上げ、たちまちに五千三百ユーロの値段を付けてしまう。

 その後も沙織が値を付ければすぐに塗り替えられ、あっという間に九千八百ユーロまで上がってしまった。

 どうしよう。
 次に値を挙げたら沙織はもうお手上げだ。

 焦りからか札を握る手の平にじっとりと汗が滲み、会場のライトが暑いと感じるほどなのに、背筋だけが奇妙に冷たい。
 顔はだんだん強ばっていって、随分怖い顔になっていそうだ。

 なのに老婦人は、そんな沙織を試すように一拍置いて、九千九百ユーロの値段をつける。

 どうしよう。もう次しかない。だけど全然決まる気がしない。

 これで駄目ならもう出せるお金がない。落札はできても手数料や関税なんて絶対払えない。

 守頭をあてにすることもできたが、それをやるのは違う気がした。
 彼を頼らずに落とすと決めた自分の気持ちも、それを認めてくれた彼の気持ちも裏切ることになるし、なによりフェアじゃない気がした。

(諦めるしかないのかしら)

 悲しみと悔しさがないまぜになった感情が喉を締め付け、息が苦しい。
 腕を重くしていると、左手側に座っていた守頭がだらりと下げていた手に自分の手を合わせ、それから指をしっかりと絡めて握った。

「後悔するな。……賭けは、常に挫折の覚悟ができているものが勝つ」

 低く鋭い囁きが隣から聞こえた瞬間、沙織の心を脅かしていた不安がたちまちに消え、まるで光が差したように気持ちが前を向く。

 真っ直ぐに顔を上げ、震えがちな指を叱咤し入札の札を上げる。

「一万ユーロ!」

 凜と声を上げる。
 刹那、会場から音が消えた気がした。

 今まで黙って札を上げるだけだった沙織が、鶴のように声を上げ羽ばたきよりもしっかりと腕を上げた姿は印象的で、誰もが振り返ってその姿に見とれていた。

 競争相手となっていた老婦人もそうで、驚いたように目をみはり、沙織を真っ直ぐに見て居たが、沙織の視線は彼女にも、周囲の参加者にもなく、ただただ真っ直ぐと――男雛を示すオークション番号へと注がれていた。

 オークションの残り時間を示すデジタルタイマーが数を徐々に減らしていき、そして――。


「落札、八十八番のマドモアゼルに!」


 タイマーのベルで我に返った進行役が高らかに沙織のナンバーを、落札者として読み上げる。
 言い知れない高揚感が足下からじわじわと迫り上がり、沙織は頬を紅潮させながら立ち上がってしまう。

 すると、会場の半分ほど席を埋めていた参加者たちから拍手が起こった。

 喝采というにはまばらだったが、沙織には充分なものだ。
 勝利の嬉しさに隣を見れば、守頭も嬉しそうな笑顔となっていて、二人で見つめ合い頷いて、同じ気持ちを共有する。

 その間、繋がれた手はもちろん指も解かれることはなく、どころかますますきつく絡み合って、互いが一体であることを示していた――。


 契約書にサインしているときも、興奮で指が震えていた。
 美術品輸送と関税の手続きを何度も確認して会場を後にし、帰りの車の中ではずっと契約書が入った封筒を胸に抱きっぱなしだったし、部屋に戻ってからはまず最初に、スーツケースの一番深い処に大切にしまい込んだ。

 それでもまだ信じられなくて、沙織は意味もなく部屋を歩き回ってしまう。

「まったく。沙織にそれほど気に掛けて貰えるとは、その男雛に妬けるな」

 苦笑しながら守頭が言うのに、まあ、と沙織は微笑む。

「相手は人形ですよ」
「その人形は幸せだな、沙織にそんなに気遣われて」

 からかいを含めつつも、どこか拗ねたような表情を見せられ、沙織はついに声を出して笑いだす。

「旦那様もちゃんと気遣って大切にしてますよ?」

 もう三十も越えた大人なのに、子どもみたいに嫉妬する姿がかわいくて、沙織は浮かれ気分のまま側で見ていた守頭に抱きつく。
 深い森に迷い混んだような緑とレザーに似た艶のある香りが鼻孔をくすぐり、スーツの滑らかな感触が頬に触れたのも一瞬、すぐに両肩を掴まれて二人の間に距離を作られる。

 はっとして顔を上げれば、困ったような、それでいて切なげな表情をした守頭の顔が目に入り、あわてて一歩後ろに下がる。

「ご、ごめんなさい……。浮かれすぎちゃいました、ね」

 親しみを込めた抱擁から逃れられ、そこで初めて、自分は彼に離婚すると言い渡したことを思い出す。
 どうせ別れる妻にこんなことされても嬉しいはずがない。

 それに元から守頭は沙織に対し女を求めては来なかった。初夜からずっと、一度だって、本来、夫婦ならあるべき身体の関係がない。

 親しくなった最近だって、キスや手を繋ぐことはあってもそれ以上はない。それもおそらく、海外暮らしが長かった守頭にすれば家族か親しい人に対する敬愛の仕草でしかなかったのだ。
 それを好意によるものと勘違いし、このまま時間が過ぎればいつかは互いに――などと意識した沙織のほうが可笑しい。

 気まずさに俯く。

 先ほどまでの高揚感も嬉しさも微塵になくなっていて、今はどうしようもない寂しさと後悔が胸を満たす。

(そもそも、どうして私は、旦那様と離婚しようと思ったのかしら)

 それすら思い出せなくなるほど、ここ最近は守頭との触れあいに――いや、甘やかされ、大切に扱われることにほだされていた。
 だが一線は越えてない。そこに守頭の気持ちが表れているのだと知る。

「ごめんなさい、本当に。私、えっと……もう、寝ますね。今日は、ありがとうございました」

 無理やりに顔を笑顔にするけれど、どうしても顔が上げられない。首はうなだれたままで、手はずっと着物の表を握っている。
 駄目だこんなのでは、子どもみたいに聞き分けのない態度はいけない。

 笑って、そして、清く正しく、きっぱりとした関係でいなければ。

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