お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
(わかるのに、どうしてこんなに悲しいの)

 潤みかけた瞳を見られたくなくて頭を振って、背を向ける。
 それから一歩踏み出そうとした時だ。

「沙織ッ」

 鋭い声で静止され、同時に手首を取られ驚く。

 抱きついた時は距離を取ろうとしたのに、今度は引き留めてくる守頭の気持ちがわからず混乱していると、すぐに肩をまた掴まれてくるりと振り向かされる。

「違う、そうじゃない。嫌だとか迷惑とかそんな考えでしたことじゃない」

 まるで考えを見透かしたように守頭が常にない必死さで言いつのる。

「だが、俺も男だ。惚れている女に抱きつかれて、なにもせずにいられる自信がない。ただ、それだけだ」

 ぐっと引き寄せ、だが身体同士が重なり合うギリギリのところで押しとどめ、守頭は顔を歪ませる。
 その瞳は見ている沙織が苦しくなるほど物憂げで、迷いと欲求に揺らいでいて、知らず息を止めてしまう。

「旦那、様」
「君が好きだ。沙織」

 間違いようのない愛の告白をされ、頭の中が真っ白になる。

「できれば、まだ言わずに済ませようと思った。言わないほうがいいと思った。だけど、今日ほど魅力的な君を見せつけられて、どうにも自分が抑えきれない」 

 苦しさと熱情の間で懊悩する気持ちをぶつけるように、守頭が声を急かせる。
 激しく、強い感情の吐露に沙織は自分の心が感動に打ち震えるのを感じた。

「私を、好き。……旦那様が」
「もはや愛していると言っていいい。いつからとは聞かないでくれ。最初から、ずっと君が好きだった。それだけは間違いない」

 望んでいた答を、望んでいた以上の言葉で与えられて、沙織は唇をわななかす。

 最初から好きだった、惚れていた。愛している。

 そんな言葉が頭の中で渦巻き、今がどこで、ここがどこかもわからなくなる。
 ただ、守頭が側にいることだけが確かで、すべてで。

 ゆっくりと腕を持ち上げて、守頭の腰へと回す。
 それから恐る恐る彼に触れ、そのまましっかりと抱き締めた。

「私も、好き。旦那様が――瑛士さんが、好き」

 初めて彼の名を口にし思いを告げる。

 心臓が早鐘をうち、呼吸は浅く苦しいほどで、なのに体中になにかが満たされていく。

 ――好きな人に触れるのが、こんなに怖くて、幸せなことだなんて知らなかった。

 初めて知る悦びに震えつつ守頭の胸に顔を埋めれば、応えるように守頭も沙織を抱き締めてくる。

 ずっと、彼が沙織に対し壊れ物に触れるように扱ってくるのが不思議だった。だけど今なら分かる。こんな少しの行動が、仕草が、吐息さえも相手に嫌われないかと考え迷い、不安になれば、誰だって怖々としてしまう。

 でも触れたい。触れずにいられない。それほど誰かを求めることを、恋と言わずになんというだろう。

 もっとしっかりと守頭を、惚れた男を感じたくて沙織は力一杯に相手を抱き締める。すると守頭も腕の力を増し、どころか沙織の肩首に顔を埋め熱い吐息を肌に吹きかける。

 ゾクゾクとしたものが首筋から胸へと伝わり、ジンとした痺れになっていく。

 初めて味わう感覚にぼうっとしていれば、たちまち男の手に顎を掬われて上向かされる。

 あっ、と小さく声を上げた時にはもう二人の唇はかさなっていて、薄い皮膚を通して伝わる熱が、蕩けるような心地を生じさせる。

 守頭は角度を変え、あるいは下唇を軽く噛んで戯れながら手を沙織のうなじに走らせる。それから指で触れるか触れないかの距離で頸椎の場所をなぞりながら、ゆっくりと頭を手で包み込む。

 そうして、彼の手がかんざしに触れた途端、思わぬ素早さで引き抜かれ、留めていた黒髪が一気に背を滑り落ちる。

 毛先が肌を撫でる感覚にも身がわななき、与えられるすべてを受け入れようと期待に震える。

 解かれたばかりの髪を手で梳きなでられるのは得も言えぬ気持ち良さで、沙織は口づけの合間にほうと小さく吐息をこぼす。
 それが男の劣情を煽ったのか、ためらうように沙織の着物の襟足を辿っていた指がすっと背筋を伝い落ち、帯に手をかけ一気に抜く。

 突然からだが楽になった気がして、また息をこぼせば、強く抱き締められたまま耳の際に口づけられ、沙織はびくりと小さく身を跳ねさせる。

「好きだ。欲しい。全部」

 単語で発された声は、美辞麗句を紡いだ口説き文句よりずっと好ましく、何より強い男の欲求を――欲しいと希う気持ちを表していた。

 その声に応じるようにより強く抱きつけば、耳たぶをそっと噛まれ、そこから頤、喉と引き締まった守頭の唇がなぞり、同時に襟元がたちまちに崩れていく。

 肩から腕を着物が滑る音がして、沙織が、あ、と声を上げれば、開いた喉元に守頭が口を寄せ、そのまま悪戯するように鎖骨を舌でなぞられた。

「あっ、あ」

 驚きと羞恥で出た声は甘く、自分のものとは思えないほど艶めいて、これが女の声なのだと脳裏のどこかで理解した。

 ほどけた帯が身動きごとに緩んで腰から下へと落ちていき、それに合わせて守頭の手も沙織の背から腰、尻へと撫で降りていく。

 まるで形を確かめるように、幻でないと探るように慎重に、だが留まることなく愛撫を繰り返され、身体全体が熱を持つ。

 ぐっと力強く尻を揉まれた衝撃で身を仰け反らせれば、同時に守頭を抱く腕の力が抜け空を滑る。
 着物の袖が抜け、すぐに帯揚げと帯留めも解かれ、漆黒の絹が足下にわだかまる。
 その中に、裾に描かれていた木香薔薇が散り咲いている様は美しく、これから抱かれようとしている沙織を、夢心地へと誘い込む。

 もう、襦袢を着ているのさえもどかしい。早く肌を合わせたい。気持ちが一つであると知りたい。
 この男が自分のつがいであることを、夫であることを、本当の意味で理解したい。

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