お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
 立ち話もなんですからと、社交辞令のつもりで言えば、相手も、ええ、人に聞かれるような場所でする話でもありませんし。と、家に上がる気満々で、勧めるより早くスリッパに足を突っ込んでいた。

「紅茶しか出せませんけど」

 他県の人が怖れるように、「お茶漬けでもいかがです?」と言って、追い返してやりたい気持ちを抑え、大人の余裕、人妻の落ち着き。と、三度心の中で繰り返し紅茶を煎れ、ソファで待つ三見の前に出す。

 カップの縁ぎりぎりまで注いだのは、今までの嫌がらせに対するせめてもの応酬だ。

「それで、私の実家に関する話とはなんでしょう」

 挨拶しない無礼を承知で切り出すと、三見はふっと笑って紅茶を持ち上げる。
 なみなみと注がれているのにこぼさず、姿勢を崩さず口元までもっていく仕草で、彼女が自分に自信があることとまったく冷静であることがわかる。

「まず、ご挨拶からにしましょうか」

 目を細め、口だけで笑みつつ三見が言う。わざと挨拶からと言ったのは沙織に対する嫌がらせだろう。

(これはなかなかの舌戦になりそうですね)

 上品に、淑女として、徹底的に相手をやり込める。
 社交界ではよくあるやり方だ。パーティや催しこそあまり出席してない沙織だが、習い事は父の意向で一流の先生に付いた。そのため、同席する生徒は年配の御夫人から同年代までみな同じ階級に、社交界に属するもので、彼女らが実に品良く戦い、相手を傷つけるのを見てきた。

 三見も、東京と京都の違いや、細かな差異はあるといえど元社長令嬢。しかもやり合う気なのだ。沙織も無傷ではすませられない。

(だけど、賭けは、勝負は、挫折する覚悟がついている人が勝つようにできている)

 パリのオークション会場で沙織が怯んだ時、守頭が言った言葉を思い出し心に刻む。

 大丈夫、傷ついても泣いても、自分は立ち上がれる。だから徹底して負けない。絶対に。
 そう思いつつ相手を見つめれば、彼女は嫌な笑いをそのままに、実に朗らかに口にした。

「私、解雇されてしまいましたわ」

 貴女のせいでしょう? といいたげな響きに沙織は間髪入れず微笑みを返す。

「そうですか、夫からそういう意向であるとは伺っていましたが。まあ、残念です。……今までとっても、大変お世話になりました」

 いろいろしてくれてありがとうではなく、色々と嫌がらせして本当にお世話ばかりかけさせられましたわ。の意を込めて言うと、相手のこめかみがぴくりと一度動く。

「あら、奥様を怒らせるようなことをしたからかしら? この解雇は」
「常識的に振る舞っていれば、普通は解雇されませんものね」

 あくまでも沙織の仕業にして被害者ぶりたい三見に対し、それは貴女の問題でしょう。と突っぱねれば、相手はいよいよ顔を引きつらせた。

 だがまったく気にならない。

 もともと、愛人であると嘘をついたり、それの嘘を補強するために業務で借りているカードキーを借りて、上司の家で勝手にシャワーを浴びた女である。
 なにが飛び出しても怖くない。と腹をくくればどうとでもなる。

 そう、思って居たはずだった。

「真っ直ぐに育てられたのですね。お可哀想」

 まるでそぐわない二つの表現に強烈な皮肉を感じつつ、だが余裕を湛えた表情で相手の言葉を待っていた時だ。

「そんな貴女を育てたお父様を騙したのが、実の夫である守頭だと気づきもせず、ままごとの夫婦ごっこを演じさせられているなんて」

 なにを言われたのか、一瞬、思考が及ばなかった。

「お父様を騙したのが、瑛士さん……ですって?」

 同様に瞳が揺らいだのを見抜いたのか、三見は真っ赤な口紅を塗った唇を露骨に歪ませ嗤う。

「ええ、貴女のお父様から一億だまし取り、それを返す代償に貴女を花嫁として差し出させた。……父親が外交官とはいえ、ただの市民出身の守頭が上流階級の世界に出入りするためにはそうするしかないものね」

 ざくざくと言葉の刃が胸に刺さる音が聞こえた気がした。

 そんな馬鹿なと思いつつ、だが思い当たる節はいくつもあった。
 社交界に出入りするために一億で沙織の婚約者の地位を買ったこと、実際に、守頭がパーティで顧客を増やし、今期の会社の業績は前年の四倍にも及ぶ勢いであること。

「そんな、馬鹿な。……なんの証拠もないのに信じることはできません」

 そうだ。落ち着け。
 証拠もないのに疑っては、この狡猾な女の思惑通りに動くことになる。

 冷静になれと自分に言い聞かせつつ相手を睨めば、彼女はひどく勿体ぶった仕草でビジネスバッグから封筒を取り出し、そこから一枚の書類を取り出す。

 裏表にびっしりと文字が刻まれた書類の標題には、売買契約書と書かれており、そこには父が土地を売却して得る金でとある会社の株を購入することが印されていた。
 急ぎ目を走らせ、裏面を返し見た沙織は目眩を感じた。

 契約書の欄に父の名と印鑑とともに並んで印されているのは、守頭の会社名と彼の名前、そして会社印だった。

 二通作成したことを示す割り印まで間違いなく彼と父の印鑑で、だからこそ沙織はこれが本物の契約書だと認めるしかなかった。

(そんな、嘘よ)

 好きだと言って求めてくれた。望みを叶え、あるいは見守り、手助けし、常に支え甘やかしてくれた。
 それもこれも、すべては父を――ひいては沙織を自分の思うままに動かし、御所頭という家の名を借りて、さらなる野心を満足させる為だったのかと、そんな疑念が心を黒く塗りつぶしだす。

 顔色を失った沙織を見て、三見はおかしそうに喉を震わす。

「大方、好きだとか、愛してるだとか言われて、それを信じてしまったんでしょう? 私ともなんの関係もないと。そんなのは嘘。あの男は自分の才能と金しか信じない。そのためにはどんな嘘もつける冷酷な男よ」
 
 言われ、初めて出会った時の守頭の姿が頭を過る。
 西洋人形のように整いすぎた顔はなんの表情もなく、声は常に平坦で感情のありかを悟らせない。
 徹頭徹尾理知的で、冷徹で、そしてなにを考えているのか読ませてくれない。

 だから一年間もの間、夫婦としての実態はなにもなく過ぎていったし。
 だから離婚すると口にした途端、人が変わったように沙織を妻として大切にしだしたのかもしれない。
 別れれば、もう、御所頭家の婿という立場を利用して社交界に出入りすることは難しくなると。

 それが嘘なら、三見との関係もまた――嘘なのだろうか。
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