お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
 嫉妬の炎が胸の底で揺らめき燃えたち、沙織は我を失いかける。

 感情のままに酷いと彼を断罪しだす、その瞬間、別の記憶が沙織の脳裏を埋め尽くす。

 一緒に料理を作ってくれたこと、黙っていても必ず助けてくれたこと。それについて決して恩着せがましくはせず、当然のように流して沙織を気負わせまいとする大人な態度。
 パリの街を巡った時に見た少年のような笑顔、繋がれた手の温かさに絡む指の確かさ。

 そして、彼と繋がった時のあの共鳴する気持ちは、恋と信じた感情は、絶対に嘘なんかじゃない。

(だとすれば、この契約書に嘘がないと話が成立しない)

 唇を噛み、その痛みで理性を呼び戻し、沙織はもう一度契約書を見直す。

 記載されている文言におかしなところはない。
 父の署名と実印も本物で、守頭の会社員と代表取締役社長という肩書きもおかしなところはない。

 だったらどちらが嘘なのかと、頭の中で必死にあがいて結論を出そうとした時。

 ふと緑色の罫線の書類が記憶の中で閃いた。
 縋るようにその記憶を掘り起こし、必死になって細部を思い出す。
 離婚届と同じ様式のそれは、沙織が結婚したときに書いた婚姻届だった。

 証人となった父と母、そして妻たる自分の名前。
 なにより、守頭の直筆の署名。

 真っ直ぐで勢いがあって、彼の性格同様にきっちりと角が取られた筆跡は端麗で、これが夫となる男の文字か。と変に感動したのを覚えている。

 後になって聞いてみれば、海外育ちが長く、筆記体の英語ばかり書いていた守頭は日本語の筆記が得意ではなく、つい崩れがちになってしまうのを、日本で事業を立ち上げるのを切っ掛けに、短期集中でペン習字を習い直したのだと。

 ――クライアントとの契約書で下手な字だと、本当に任せていいのかと不安になるだろう? とくに金を持っている年配の男性はそういう処でも人を判断する傾向がある。だから、直した。

 どこか照れくさそうに教えてくれたことを思い出し、記憶の中の文字や彼の言葉と、三見が差し出した契約書の署名を比較する。
 まるで話にならないほど、沙織の知る守頭の筆跡とは違っている。
 一字一字の文字の大きさが違うし、漢字の止めやはらいもいい加減で、名を示す瑛士の文字も歪んで見える。

「……許せない」
「ええ、そうでしょう。そうでしょうとも。ねえ?」

 自分の手の平の上に沙織が乗ったと勘違いした三見が、歓喜を帯びた声を出すが、沙織は煽られるどころか、いっそ冷ややかな眼差しになっていた。

「一瞬でも、夫を疑った自分のことを、まったく許せません!」
「ええそうでしょうと……え?」

 同意しかけ、三見が間の抜けた声を出す。
「守頭を信じたことを後悔しないというの!」

 一拍置いて、驚愕に大きくなった声で三見が叫ぶのを、沙織はにらみつけて黙らせる。

「当たり前です。……馬鹿らしいですわ。こんな偽物の書類を信じただなんて! 妻として失格です! 私もまだまだ精進が足りない!」

 彼は、沙織を騙す人じゃない。
 彼は常に沙織の問いに正直かつ誠実に応えてきた。
 出会った時から今まで、ただの一度も沙織を丸め込もうだとか、意見をねじ伏せようとしたことはなく、淡々と、だが一つの誤魔化しもなく応えてくれた。

 結婚についても、そして恋にしても。
 言葉が足りなかったりなかったりすることはあるが、それも行動で補って、夫の役目を果たそうとしてくれていた。

 そんな人を信じないなんて、本当に妻としてありえない。

「旦那様は、私を騙す人じゃない。そして私が大切に思う人もまた同じく大切にしてくれる」

 恋敵である逸樹の気持ちすら慮るほど、人の気持ちに対して真面目なのだ。
 そんな人が父を騙すはずもなく、こんな乱れた、人格のいい加減さが伝わるような文字もまた書かない!

「あなた、騙されてるわ」
「騙してるのは貴女です! 詐欺を働いたのも貴女なのね!」

 ほとんど直感で叫ぶと、それが図星だったのか三見が奇声を上げて立ち上がり、テーブルにあったティーカップを手に取り沙織に向ける。

(ああ、紅茶なみなみと注ぐんじゃなかった。意地悪しようとすると、自分に返るってお母様が仰ってた通りだわ)

 柄に似合わないことをするものではないと思いながら目を閉じ、腕で顔を庇う。

 だがそれより早くドアが乱暴に開かれる音がし、大きな足音が近づいてきた。
 なんだろうと目を開けた沙織の視界に映ったのは、今まさに熱い紅茶を沙織にぶちかけようとしていた紅茶を腕ごとひねられた三見と、彼女の放った紅茶をその身に受けて顔を歪める守頭の姿だった。

「瑛士さん!」

 ばしゃりと、熱湯が彼の顔から首にかけてかかり、上質なスーツにたちまち染みが広がり湯気が立つ。
 だけど守頭は沙織の声に構わず、背後を振り返り声を張り上げた。

「ここだ! 三見頼子はここにいるぞ」

 告げた途端、幾つもの足音が重なり近づき、部屋に複数の男達が雪崩れ込む。
 そのうちの一人は特徴的な紺色の制服をきていて、一目で警察官だと知れた。
 どうして、警察が――と、目を大きくしていると、銀色の手錠が閃き、ひねられた三見の手首にからんでガチャリと閉じる。

「三見頼子! 二十時十三分、詐欺、公文書偽造、そして暴行の現行犯で逮捕する!」

 警察官が高らかに宣告した途端、三見が引きつった悲鳴を上げもがき暴れるが、私服警官だろう別の男が脇からがっちり抱え込んで、そのまま引きずるようにして家から連れ出して行ってしまった。

「大丈夫ですか、社長」

 遅れて、守頭の秘書である初瀨川が、髪を乱しながら駆けよってきて、沙織ははっと息を呑み我先にと守頭の側へ寄る。
 ポケットからハンカチを出して、彼の顔にかかった紅茶を拭い顔を寄せる。

「大丈夫ですか、瑛士さん! 火傷は!」

 心配の余り顔を引き寄せ、ほとんど口づけする距離になっていたが、焦る沙織はまるで気付かない。
 肌が赤くなったり、水ぶくれになってないか。ああ、スーツはクリーニングしてももう駄目かも。などと考えつつ、必死で濡れた肌を拭いていると、なぜか初瀨川がわざとらしく咳をして、続いて守頭も咳払いする。

「大丈夫だ。驚いただけでそんなに熱くはなかった」
 
 憮然とした口調で言われるが、それが照れ隠しであることは彼の肌が火傷以外の理由で赤くなっていることと、自分が彼のシャツの襟首を大きく開き顔を寄せていることで気づき――。

「ご、ごめんなさい! 旦那様が心配なあまり、私ったら! なんてはしたない」
 
 見ようによってはうなじに口づけしようとしている姿勢だとわかり、沙織はあわてて距離を取る。
 が、場所が悪かったのか、すぐに尻がソファの背に当たってよろめいてしまう。

「沙織」

 名を呼ぶと同時に、当たり前の仕草で腰に腕を絡めて抱き寄せて、それから溜息をついて守頭がぼやく。

「俺が火傷するより、沙織が転ぶほうがきつい」
「あら……まあ、その……ごめんなさい?」

 実にさらりと惚気られ、当人である沙織が逆に照れてしまう。
 二人とも赤くなって、恥じらって、視線を合わせてそらしを続けていると、また初瀨川が咳払いした。

「ええと、その、大丈夫そうですので社長と奥様はどうぞ、家でおくつろぎください。後のことは私が警察から伺っておきますから」
「……ああ、頼む」

 照れ隠しなのか、いつも以上に素っ気なく守頭が秘書の初瀨川に告げるが、彼はそんな守頭の性格を知ってか、知らずか、微笑ましいと言いたげな表情を見せつつ頭を下げ、警察と一緒に出て行った。

< 46 / 52 >

この作品をシェア

pagetop