お飾り妻は本日限りでお暇いたします~離婚するつもりが、気づけば愛されてました~
例年大して花を付けない乙女椿が、その日、一枝だけ見事に咲き誇っていて、どうしてもそれが欲しくて手を伸ばした。
籠の鳥が、それでも空を望んで羽ばたいてみるように、窓から落ちるほど身を乗り出して腕を伸ばして花枝に触れた時、甲高い鳥の鳴き声がして、人が来たのだと視線を見渡して。
「お客が、いました。スーツをきた若い男の人と、小太りのおじさまと」
そうだ、三年前だ。
相手の顔はわからなかったけれど、お転婆な悪戯をしている処をみられたのが気恥ずかしかったのを覚えている。
「沙織からは枝葉が邪魔で俺の顔は見えなかっただろうが、俺からはわりとよく見えた。悪戯を誤魔化すように笑って、そのうえ小さく舌まで出して」
「そんな処まで……」
見られていたのかと恐縮する。
金茶の目は美しいだけでなく、視力もまた良かったのか。
だけど守頭は、それで会話を終わりにせず、まるで独り言のように続けた。
「一目で惹かれた。強烈に印象に残った。……灰色しかなかった俺の世界に、鮮やかな色を連れ込んで」
しばらく間を開け、守頭は自身の身の上を初めて語った。
両親は見合い結婚をしたものの、互いの野心や目標を追うことばかりに夢中で、まったく家庭を顧みず、育児を家政婦に任せるくせに、気まぐれに解雇して、だから守頭は親しい大人も、温かい家庭も知らないまま育ったと。
「ただ、成績だけはよかった。言われたことをこなしていれば、一応は息子と紹介されるから、そうやって上へいけば、いつかは認めて貰えるかと。……まあ、そんなことはなかったが」
本人曰く、多分、小器用だったのだろう。と。
言われたことを言われた以上にこなせば、優秀だ、天才だと親が喜ぶ、大人が喜ぶ、上司が喜ぶ。
その間だけ、自分はこの世界に実在すると確認できる。
大学でも、就職したコンサルティングファームでも同じで、要求を要求以上にこなす。
最初は達成感があったけれど、それもすぐ色褪せて、ただのタスクに成り下がる。
言われたまま努力し、達成すれば次の課題がやってくる。
無味乾燥の毎日が続き、嫌だと思うより早く心は老いて、世界は灰色になるまで色褪せて。
ただ生きているだけの日々を過ごす中、クライアントの要望で嵐山に別荘を探し求め、御所頭家に来て。
「そこで沙織を見た。どうしてか、印象に残った。沙織が居る場所から色が鮮やかに広がっていくのを見て、それが感動だとわからずに、心が震えた」
一目惚れ、というには強く、恋というには遠い。
ただ、後になって思うのだ。
箱入りのお嬢様と聞かされていた娘が取る行動にしては意外すぎて、空に伸ばす手が今にも空に羽ばたき自由に消えてしまいそうで。
望まれるものを欲しがるのではなく、自分で手に入れたものが欲しいと、その姿が、行動が語っていて――深く共感したのだと。
「だから求婚したと」
「そうだな。だが、金の力で手に入れるのではなかったな。……君を知るごとに、君が一人の人間で、生命に輝く女性で、感情の豊かな心を持っていると発見するごとに、それらをまるで無視して、やくたいもない金で夫の地位を買ったことを、君の意志を踏みにじっていたことを後悔した。この半月、ずっと」
それはお互い様だと沙織は思う。
一年、なんの関係もなかった。夫婦として機能していなかった。
「私、もっとわがままに言えばよかったと思ってました。……一年、なにもないと餌を待つ小鳥みたいにぼうっと籠の中で生きているのではなくて、あれがしたいとか、こうしてほしいとか、ちゃんと伝えれば、瑛士さんとも話しができて、もっと早く夫婦らしくなれて」
離婚なんて、言い出すことはなかった。
「お互いに遠慮しすぎたな」
「でも、仕方ないですよ。ああしろ、こうしろ。そうしていればいい。そればっかり言われていたら、自分からなにか言い出すのは億劫ですもの」
「同意だ」
ふと、同時に笑い、空気が少しだけ和む。
守頭と沙織を結びつけた乙女椿は、今年はやっぱり例年通りあまり花をつけておらず、盛りの枝でも二輪ほどしかない。
だけど中に、白と赤のつがいになっている一枝があって、それがすごく綺麗に見えた。
守頭も、こんな気持ちで自分を見ていたのだろうか。沙織が思いを馳せていると、彼が静かに名を呼んできた。
「沙織」
「はい」
「好きな時に離婚すればいい。……だけど、離婚しても、側にいて欲しいというならどんなことをしても駆けつけるし、君が笑えば一緒に笑う。たとえ笑っている場にいられなくても、その話を聞いて笑うだろう。泣きたい時には一番に側にいって、胸を貸すから好きなだけ泣けばいい」
すべてを受容する言葉に、沙織の涙腺がたちまちに潤む。
思えば、守頭は一度だって、沙織の望む自由を否定しなかった。
働きたいと言った時も、出張に行くと言った時も、そのほかの、どんな細やかなことも。
父親が厳粛で頑固だったから、男性はそんなものと思い込んで諦めていた自分の殻を割りたくて、自由が欲しくて離婚を申し出たけれど、気付けば、殻はとっくに割れていて、自由に、一緒に自由に羽ばたいてくれる伴侶がいた。
(そのことに、今きづいた)
瞬きもわすれ、守頭だけを見つめていると、彼は困ったように首をかしげ、それから酷く丁寧な仕草で沙織の頬から涙を拭い取る。
「夫でなくても、夫であっても、永遠に君だけを愛する」
それは誓える。と、きっぱりと言われたと同時に、沙織は守頭に抱きついていた。
「私も、瑛士さんが好きです。大好きです、永遠に愛します」
抱きついて、それから彼の背中で、手にしていた離婚届を封筒ごと幾重にも重ねて破りを繰り返す。
花吹雪ほどに細かく紙切れとなった、離縁の証明は次から次に沙織の指からこぼれて空へ舞い上がり――。
代わりに、雪が降ってきた。
桜吹雪のように大きな切片が髪に降れ、溶けるより早く大きく、守頭の温もりが残るコートが肩にかけられる。
そして、ようやく沙織は理解した。
どうして、パリのオークションでこの男雛に惹かれたのか、夫婦という関係になにを望んだのかを。
守頭に、夫に似た男雛を元ある場所へ、帰るべき場所へ返したかった。待っている女雛が自分のような気がして。
自由になって、そして帰る場所が欲しかった。
自由に生きる誰かの、帰る場所になりたかった。
だから、夫婦となって家を作っていくのだろう。鳥も獣も、人間も。
今までの家というくくりから自由となって、自分の責任で家を作る。
それを守頭と成し遂げたい。
幼い頃に望んだような家を、いや、もっと素敵で温かく幸せな家を。
そう思いつつ、沙織は守頭を見上げた。
「人妻、延長してもいいですか? 私の最愛の旦那様」
恥ずかしさを押し、はにかみつつ小声で守頭に尋ねてみれば、彼は沙織の手を取り、甲に口づけして指を絡め言った。
死が二人を分かつ時まで、最愛の妻が俺だけの妻であることを願う。――と。
それから二人は、子どもみたいに繋いだ手を振り、笑顔を当たりに散らしながら家まで歩いた。
家の中では、娘を驚かそうと、朝から早起きして両親、使用人総出で飾り付けた有田の名匠が作ったひな壇飾りが、空いた男雛の席に座るべき主と連れの夫婦の到着を、今か今かと待っていた。
ー完ー
籠の鳥が、それでも空を望んで羽ばたいてみるように、窓から落ちるほど身を乗り出して腕を伸ばして花枝に触れた時、甲高い鳥の鳴き声がして、人が来たのだと視線を見渡して。
「お客が、いました。スーツをきた若い男の人と、小太りのおじさまと」
そうだ、三年前だ。
相手の顔はわからなかったけれど、お転婆な悪戯をしている処をみられたのが気恥ずかしかったのを覚えている。
「沙織からは枝葉が邪魔で俺の顔は見えなかっただろうが、俺からはわりとよく見えた。悪戯を誤魔化すように笑って、そのうえ小さく舌まで出して」
「そんな処まで……」
見られていたのかと恐縮する。
金茶の目は美しいだけでなく、視力もまた良かったのか。
だけど守頭は、それで会話を終わりにせず、まるで独り言のように続けた。
「一目で惹かれた。強烈に印象に残った。……灰色しかなかった俺の世界に、鮮やかな色を連れ込んで」
しばらく間を開け、守頭は自身の身の上を初めて語った。
両親は見合い結婚をしたものの、互いの野心や目標を追うことばかりに夢中で、まったく家庭を顧みず、育児を家政婦に任せるくせに、気まぐれに解雇して、だから守頭は親しい大人も、温かい家庭も知らないまま育ったと。
「ただ、成績だけはよかった。言われたことをこなしていれば、一応は息子と紹介されるから、そうやって上へいけば、いつかは認めて貰えるかと。……まあ、そんなことはなかったが」
本人曰く、多分、小器用だったのだろう。と。
言われたことを言われた以上にこなせば、優秀だ、天才だと親が喜ぶ、大人が喜ぶ、上司が喜ぶ。
その間だけ、自分はこの世界に実在すると確認できる。
大学でも、就職したコンサルティングファームでも同じで、要求を要求以上にこなす。
最初は達成感があったけれど、それもすぐ色褪せて、ただのタスクに成り下がる。
言われたまま努力し、達成すれば次の課題がやってくる。
無味乾燥の毎日が続き、嫌だと思うより早く心は老いて、世界は灰色になるまで色褪せて。
ただ生きているだけの日々を過ごす中、クライアントの要望で嵐山に別荘を探し求め、御所頭家に来て。
「そこで沙織を見た。どうしてか、印象に残った。沙織が居る場所から色が鮮やかに広がっていくのを見て、それが感動だとわからずに、心が震えた」
一目惚れ、というには強く、恋というには遠い。
ただ、後になって思うのだ。
箱入りのお嬢様と聞かされていた娘が取る行動にしては意外すぎて、空に伸ばす手が今にも空に羽ばたき自由に消えてしまいそうで。
望まれるものを欲しがるのではなく、自分で手に入れたものが欲しいと、その姿が、行動が語っていて――深く共感したのだと。
「だから求婚したと」
「そうだな。だが、金の力で手に入れるのではなかったな。……君を知るごとに、君が一人の人間で、生命に輝く女性で、感情の豊かな心を持っていると発見するごとに、それらをまるで無視して、やくたいもない金で夫の地位を買ったことを、君の意志を踏みにじっていたことを後悔した。この半月、ずっと」
それはお互い様だと沙織は思う。
一年、なんの関係もなかった。夫婦として機能していなかった。
「私、もっとわがままに言えばよかったと思ってました。……一年、なにもないと餌を待つ小鳥みたいにぼうっと籠の中で生きているのではなくて、あれがしたいとか、こうしてほしいとか、ちゃんと伝えれば、瑛士さんとも話しができて、もっと早く夫婦らしくなれて」
離婚なんて、言い出すことはなかった。
「お互いに遠慮しすぎたな」
「でも、仕方ないですよ。ああしろ、こうしろ。そうしていればいい。そればっかり言われていたら、自分からなにか言い出すのは億劫ですもの」
「同意だ」
ふと、同時に笑い、空気が少しだけ和む。
守頭と沙織を結びつけた乙女椿は、今年はやっぱり例年通りあまり花をつけておらず、盛りの枝でも二輪ほどしかない。
だけど中に、白と赤のつがいになっている一枝があって、それがすごく綺麗に見えた。
守頭も、こんな気持ちで自分を見ていたのだろうか。沙織が思いを馳せていると、彼が静かに名を呼んできた。
「沙織」
「はい」
「好きな時に離婚すればいい。……だけど、離婚しても、側にいて欲しいというならどんなことをしても駆けつけるし、君が笑えば一緒に笑う。たとえ笑っている場にいられなくても、その話を聞いて笑うだろう。泣きたい時には一番に側にいって、胸を貸すから好きなだけ泣けばいい」
すべてを受容する言葉に、沙織の涙腺がたちまちに潤む。
思えば、守頭は一度だって、沙織の望む自由を否定しなかった。
働きたいと言った時も、出張に行くと言った時も、そのほかの、どんな細やかなことも。
父親が厳粛で頑固だったから、男性はそんなものと思い込んで諦めていた自分の殻を割りたくて、自由が欲しくて離婚を申し出たけれど、気付けば、殻はとっくに割れていて、自由に、一緒に自由に羽ばたいてくれる伴侶がいた。
(そのことに、今きづいた)
瞬きもわすれ、守頭だけを見つめていると、彼は困ったように首をかしげ、それから酷く丁寧な仕草で沙織の頬から涙を拭い取る。
「夫でなくても、夫であっても、永遠に君だけを愛する」
それは誓える。と、きっぱりと言われたと同時に、沙織は守頭に抱きついていた。
「私も、瑛士さんが好きです。大好きです、永遠に愛します」
抱きついて、それから彼の背中で、手にしていた離婚届を封筒ごと幾重にも重ねて破りを繰り返す。
花吹雪ほどに細かく紙切れとなった、離縁の証明は次から次に沙織の指からこぼれて空へ舞い上がり――。
代わりに、雪が降ってきた。
桜吹雪のように大きな切片が髪に降れ、溶けるより早く大きく、守頭の温もりが残るコートが肩にかけられる。
そして、ようやく沙織は理解した。
どうして、パリのオークションでこの男雛に惹かれたのか、夫婦という関係になにを望んだのかを。
守頭に、夫に似た男雛を元ある場所へ、帰るべき場所へ返したかった。待っている女雛が自分のような気がして。
自由になって、そして帰る場所が欲しかった。
自由に生きる誰かの、帰る場所になりたかった。
だから、夫婦となって家を作っていくのだろう。鳥も獣も、人間も。
今までの家というくくりから自由となって、自分の責任で家を作る。
それを守頭と成し遂げたい。
幼い頃に望んだような家を、いや、もっと素敵で温かく幸せな家を。
そう思いつつ、沙織は守頭を見上げた。
「人妻、延長してもいいですか? 私の最愛の旦那様」
恥ずかしさを押し、はにかみつつ小声で守頭に尋ねてみれば、彼は沙織の手を取り、甲に口づけして指を絡め言った。
死が二人を分かつ時まで、最愛の妻が俺だけの妻であることを願う。――と。
それから二人は、子どもみたいに繋いだ手を振り、笑顔を当たりに散らしながら家まで歩いた。
家の中では、娘を驚かそうと、朝から早起きして両親、使用人総出で飾り付けた有田の名匠が作ったひな壇飾りが、空いた男雛の席に座るべき主と連れの夫婦の到着を、今か今かと待っていた。
ー完ー